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第48話

ステージのすぐ裏手にある楽屋は、ホール内にいくつかある楽屋の中でも指揮者やソリストのために作られた特別仕様。ふかふかのソファーに大きな鏡、シャワールームまで完備されていて、もはや楽屋と言うよりホテルの一室だった。 「そこに座ってろ。紅茶でも入れてや…」 「いえいえ、け、結構です!」 関係者としてステージ裏にいるだけでも恐れ多いのに、その上楽屋に上がり込むなんてとんでもない。 全力で首を振ってお断りしたのだけれど、オリヴァーは握った手を離してはくれなかった。 僕を振り返るオーシャンブルーがぎ、と細められる。 「あの、ぼ、わ、私は今日はsikiのマネージャーとして、」 「だったら命令だ、座れ。」 「ぐ、」 逃げられない。 無情にも扉は閉められようやく手を離してはもらえたけれど、僕は顎で示されたソファーへと腰を下ろさざるをえなかった。 「ずっとアマンダの手伝いをしていただろう。……本当は立っているのもキツいんじゃないのか?少し休んでいろ。」 「いえ、その……平気、ですから。」 僕の家のソファーより何倍もふかふかなはずのそこに座っても、リラックスなんてできるはずもない。 恐れ多くも二人分の紅茶を淹れてきてくれたオリヴァーが隣に腰を下ろし、僕の心臓は今にも破裂しそうだった。お湯を注いだカップにティーバッグを突っ込んだままだされた雑な紅茶は、飲むまで返さないぞというオリヴァーの意思表示なのだろう。 とにかく、渡すものを渡して早くこの場から逃げ出したい。 「あ、あの……これ、どうぞ。」 手にしたままになっていた差し入れの袋を差し出せば、オリヴァーは素直に受けとってくれた。 オーシャンブルーがじ、と僕を見つめる。 「オレにまで差し入れとは……なんだ、やはり気持ちが変わったか?」 「違います。」 キッパリと告げれは、オリヴァーは面白くなさそうに唇をとがらせる。けれど、やはりいつも感じる圧というか、覇気というか、弱い気がする。 「私が音大生だった時、オケの本番前はいつも緊張してしまって……直前はキャンディーばかり舐めていたのを思い出したんです。」 僕は本当に凡人だったから、コンサートの前は毎回プレッシャーに押しつぶされそうだった。 食事は喉を通らないし、口の中はカラカラ。それでも糖分を口にしていないと倒れてしまいそうで、ないよりはマシだと飴を舐めるのがお決まりだった。 この人達は僕とは違う。だけれど、もしかしたら、万が一があるかもしれない。いらなければ捨ててもらえばいいだけだし、念の為。 気がつけば、今朝色さんをお迎えに行く前に百貨店に駆け込み、色さんとオリヴァー、二人の好みそうなお菓子を購入していた。 オリヴァーは手にした袋に視線を落とし、ふ、と小さく笑う。 「そうか、シーはキャンディーだったのか。くくっ、」 「?」 小さな笑いはくつくつと止むことなく、オリヴァーは手にした袋を一度テーブルに置くと、ソファーに立てかけていた自らのヴァイオリンケースに手を伸ばした。 「オレの場合はこいつだな。」 背面のポケットから取り出したのは、見覚えのありすぎるクマの形をしたグミ。『菓子折り』として、僕がいただいたあのお菓子だ。 これってつまり、 「……正直な話、今朝からこいつしか口に入れていない。」 「、」 うそみたいだ。尊大で自信家なこの人が、まさかそんな。 思わず目を見開いてその顔を見つめてしまっていた。 オリヴァーは居心地悪そうに足を組みなおし、僕から視線をそらせる。 「……国が変わればオーディエンスも変わる。初めての土地で酷評なんてことになったらアマンダやスタッフたちの名も汚すことになるからな。」 「オリヴァー……、」 そうか。いつだってふんぞり返っているその身に、この人はきっと想像できないくらい多くのものを背負っているんだ。 何度となく繰り返してきたコンサートであっても背負うものは変わらない。……緊張、しないわけがないんだ。 「……オリヴァーも人間だったんですね。」 あえて揶揄するような言葉を選べば、オリヴァーはふ、と笑う。 少しだけ、彼の肩の力が抜けた気がした。 「なぁ、シーの差し入れ開けてもいいか?」 グミは再びヴァイオリンケースのポケットにしまい込み、オリヴァーはテーブルに置いたままになっていた差し入れの袋に手を伸ばす。どうぞと声をかけるが早いか、口の部分を閉じていたシールを破り中をのぞき込む。 「ん?なんだこれ、」 それは、おそらく彼にとって初めて目にするものなんだろう。 オリヴァーが袋から取り出したのは、小さなガラス瓶。中には白にピンクに黄色に緑、色とりどりの砂糖菓子。 「星だ。星が入ってるぞ、これ!」 オーシャンブルーの瞳をまん丸に見開きながら、オリヴァーはガラス瓶を顔の前に掲げ、上から下から覗き込む。 その瞳は子供みたいにキラキラして見えた。 「金平糖という日本の伝統的な砂糖菓子です。」 何に対しても芸術的美しさを求める、甘党の食いしん坊さんに何を差し入れればいいのか。今朝百貨店のショーケースを眺め歩いて目に止まったのがこの金平糖だった。 目にした瞬間昨日プラネタリウムで観た星と、はしゃいでいた横顔が脳裏をよぎって、これしかないんじゃないかって迷わず包んでもらっていた。 「コンペートウ、これ、食べられるのか。」 「はい。召し上がってみてください。」 「ん、」 オリヴァーは、瓶のコルク栓を抜いて中身をいくつか手のひらに転がした。そのひとつを指先でつまんでしばらくじぃ、と眺めてから口の中に放り込む。ぽりぽりぽり。咀嚼する音が小気味良い。 「甘いな。不思議な味だ。」 ふ、と小さく微笑んでみせたオリヴァーに胸を撫で下ろす。どうやら気に入って貰えたらしい。二つ三つと続けて口の中に放り込んではご機嫌で味わっている。 そこには硬い表情も硬い空気もなくて、少しは緊張もとけたんだろうか。 「……Thankyou.」 紅茶で星を流し込んだ後、オリヴァーは小さな声で、けれど確かにそう言った。 たった一言。だけど、嬉しい。 思わず頬が緩んでしまって、あわてて隠すために目の前の紅茶に口をつけたのだけれど、オリヴァーにはバッチリ見られてしまったらしい。ふわりと優しい笑みが真っ直ぐに僕に向けられて、思わずごくりと紅茶ごと息を飲んだ。

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