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第47話

ふわりと香るシトラスの香水、背中に感じた温もり。口元を押さえられ、そのまま背後から抱きしめられる形で身動きを封じられる。 「静かに。今はやめておいた方がいいぞ。」 耳元で密やかに落とされた言葉に、ゾクリと背筋が震えた。 なに、なんで、いきなりどうして。 突然の事に頭はパニックなのだけれど、離してほしいと背後を見上げれば、オリヴァーはニヤリと口の端を上げ、目の前の扉を見つめていた。 『緊張、とけた?』 『……少し。あー、でももう一回。』 『へ?……んっ……』 扉の向こうからかすかに聞こえてきた声に、思わず肩が跳ねた。 色さんともう一人、艶のあるこの声はもしかしなくても。 「ついさきほどアスカがシキを訪ねてきたからな。今はそっとしておいてやれ。」 あぶなかった。 これ、知らずに扉を開けていたら僕は馬に蹴られて死ななければならなかったやつだ。 初めてのコンサートで緊張する色さんに激励のためにやってきた恋人の美鳥さん。この扉の向こうの光景なんて、見なくてもわかる。開けたら一生色さんに恨まれるやつだ。 ようやくオリヴァーに静止をかけられた理由を理解し苦笑すれば、オリヴァーは素直に拘束を解いてくれた。どうやら本当に、純粋に親切から静止をかけてくれただけらしい。 「助かりました。教えてくださってありがとうございま…」 オリヴァーに向き直り、頭を下げながら口にした言葉は最後まで紡げなかった。 「ん、どうした?」 「あ、いえなんでも。」 思わず上から下までしげしげと見つめてしまっていた。咄嗟に誤魔化したけれど、僕の視線の意味は気づかれてしまったらしい。 ああ、とオリヴァーは髪をかきあげその場でポーズをとってみせる。 「どうだ?似合うだろ?」 「……まぁ、そうですね。」 リハーサルの時も僕は裏方仕事をお手伝いしていたし、そもそもなるべく顔を合わせないようにしていたから知らなかったけれど、いつの間に着替えていたんだろう。 上質な黒の燕尾服に白いベスト。白の蝶ネクタイという演奏家としてオーソドックスな装いではあるのだけれど、オーダーメイドで作られたのであろうその衣装はオリヴァーのすらっとした長身を引き立てていた。 スタイリストさんの手により整えられたプラチナブランドを軽くかきあげ、ふふん、と自慢げにそのオーシャンブルーの瞳を細める様は腹が立つくらい絵になっている。 ほんと、無駄に顔がいいんだよな、この人。 「どうだ、惚れなおしたか?」 「そういう冗談はやめてください。」 オリヴァーの冗談とも本気ともつかない言葉に冷めた視線を返せば、オリヴァーはむすっと不機嫌になる……かと思いきや、大袈裟に肩を竦めてみせただけだった。 「つれないな。」 「……、」 もっとよく見ろとか、ちゃんと褒めろとか、いつもならもっと突っかかってくるところなのに。 オリヴァーの反応は以外に素っ気なくて、逆にビックリしてしまった。 そう言えば、意図的に避けていたせいかと思っていたけど、今日はオリヴァーの声をあまり聞いていない。アマンダさんを始め多くのスタッフさんに声をかけられ、指示を出し、慌ただしく動いていたはずなのに、だ。 これは、もしかしなくても。 問いただそうとしたものの、僕の疑問が音になるより早くオリヴァーは逃げるように視線を僕の手元へと落とした。 「シキへの差し入れか?」 手にしていた百貨店の紙袋を覗き込まれ、思わずオリヴァーの視界から隠すように持ち直す。 「なんならオレが貰ってやろうか。」 ニヤリと意地悪く笑うその表情もやっぱりいつもとどこか違う気がして、本来なら結構ですって彼を押しのけて逃げ出したい場面のはずなのに、僕はじ、とその長身を見上げてしまっていた。 「緊張、してるんですか?」 ピクリと、オリヴァーの肩が僅かに動いた。 答えは返ってこなかったけれど、その反応だけで十分だった。 ほとんど口にしていなかった昼食。いつもよりぎゅっと引き結ばれていた口元。いつもより少ない口数。朝からそう感じて僕が心配していたのは、色さんだけではなかったんだから。 「……この差し入れはあなたには少しビターすぎると思いますよ。」 僕は後ろ手にしていた差し入れの紙袋をオリヴァーの前で開いた。中には色さんに差し入れようとしていた抹茶味のビターチョコレートと、もう一つ。 「だから、その……オリヴァーにはこちらを。」 紙袋の中から一回り小さな袋を取りだして見せれば、オーシャンブルーの瞳はぱちりと瞬き、持っていた袋ごとがっちりと手を掴まれる。 「ちょ、オリヴァー、」 「差し入れなんだろ。部屋で貰ってやる。」 離してくださいと口にするより早く、僕はオリヴァーに凄い力で手を引かれ、色さんの楽屋の隣、オリヴァーの楽屋へと引きずり込まれてしまった。

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