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第46話 二つの音

都内にある日本最大級のコンサートホール。クラシック音楽専用に作られ、徹底的に音にこだわった結果、日本では珍しくステージを360度客席が取り囲むヴィンヤード(ぶどう畑)形式が採用された、広さも音響もデザインも日本どころか世界に誇れる施設だ。 そんな凄いこの場所で、本日は世界に名を轟かせるヴァイオリニスト、オリヴァー・グリーンフィールドの日本初のコンサートが行われる。 そんな場所の、バックステージに、……今僕は、立っている。 ……朝から震えが止まらない。 色さんがコンサートに出る喜びに気を取られてしまっていたけれど、色さんが出るということは、当然僕も関係者としてここに立つことになるわけで。……と、気づいたのは、実は今朝色さんをご自宅までお迎えに行く道すがらの事だった。 人生で一度くらいは足を踏み入れてみたいと憧れて、年に一度行われているバックステージツアーに申し込んだ過去があるような平凡なサラリーマンが、秒でチケットを完売させたヴァイオリン界のスーパースターのコンサートに関係者として。あまりに場違いすぎて朝から本気でオロオロしっぱなしだった。首から下げている関係者を示すネームホルダーが吐きそうなくらい重い。 普段は色さんの都合上、最小人数のスタッフで人目を避けるようなお仕事ばかりだったからあまり実感がなかったのだけれど、僕がマネージャーを務めさせていただいているsikiは映画にドラマにCMにと今や日本人で知らない人を探すのが難しいくらいには名の知れた人なのだ。 そんなsikiの名を汚すようなことだけは絶対にしてはならない。今日の僕はそれだけを考えて無心でマネージャーとして仕事に徹した。大勢のスタッフさんたちに顔を知られないようにと色さんの代理で打ち合わせに参加し、時には通訳を務め、手があけばアマンダさんのサポートに回る。気がつけばマネージャーとしての仕事を超えて、とにかく動いて動いて忙しさで現実を意識しないようにしていた。 「シー、ケータリングの撤収も終わったし、あなたもそろそろ自由にしていいわよ。」 アマンダさんからそう声をかけられたのは、本番を数時間後に控えた昼過ぎの事だった。 相変わらず細身のスーツをきっちりと着こなしているけれど、今日は通訳として多少ステージに登ることになるからか、ダークブルーのビジネススーツに襟元にフリルのついたドレスシャツを着用し、後ろでまとめ上げられているブロンドの髪には綺麗な髪飾りがつけられている。 やっぱり、その辺のモデルさんよりも華があってお綺麗な方だ。先程からすれ違うスタッフの視線が彼女に注がれているのがわかる。 けれど、そんなアマンダさんのご機嫌は朝から最悪だった。 ステージの上で慌ただしく動くスタッフさん達を眺めながら、ルージュの引かれた唇から重いため息が漏れる。 「まったく、まさか英語を理解できないスタッフがここまで多いと思わなかった。ニホンゴなんて難解な言語を理解してるくせに、どうして単純な英語を理解しようとしないのか。……シーがいてくれて助かったわ。」 「いえ、私は別に。お力になれたのならよかったです。」 オリヴァーが連れてきたスタッフ達と現地スタッフとの橋渡しができたなら、少しくらいはここに来た意味があったのだろう。 いつの間にかアマンダさんにまでシーと呼ばれていた事にはあえてつっこまず、僕は彼女に軽く頭を下げた。 「私にとっても、sikiにとっても、色々勉強になりました。」 ありがとうございますと再度頭を下げた僕を、アマンダさんはアンダーリムの眼鏡をく、と押し上げて見つめる。 「こちらこそ、うちのクソガキのワガママで振り回して悪かったわね。あなたのボスにももう一度お詫びをしておいて。」 「はい。」 リハーサルはさきほど問題なく終了し、スタッフさん達は最終確認作業に入っている。僕達マネージャーに出来ることは、このピリついた空気の中でいかに奏者の二人に落ち着ける時間と空間を用意してあげられるかだと思う。 オリヴァーも色さんもリハを終え、衣装もヘアメイクも終えて楽屋で待機されているけれど、ケータリングの昼食にほとんど手をつけていなかったのが気になっていた。 「それじゃあ、私は色さんの様子を見てきますね。」 「ええ、そうしてあげなさい。それから、あなたもちゃんと休憩とった方がいいわよ。酷い顔してるから。」 「え?」 そう言われて思わず自分の頰を両手で押さえる。 全く自覚がなかった。睡眠をとって痛みとダルさは少しはマシになったし、その、下半身に感じる違和感は僕としては隠せていたつもりだっのだけれど。 「……その様子だと、初めてだったんでしょ?無理しない方がいいわ。」 周りに聞こえないよう先程までより小さな声で呟かれた言葉に、僕の心臓は一瞬動きを止めた。 「あ、あ、あの、……こ、コンサートの話、ですよね?」 チラリとアマンダさんは眼鏡のブリッジを押し上げる。 「……まぁ、そういう事にしておいてあげるわ。」 思わずごくりと息を飲んだ。 昨日オリヴァーを送り届けた時には顔を合わせていないし、ホテルを出たのは真夜中の事だ。アマンダさんには見られていないはず……なのだけれど。この人、いったいどこまで知っているんだろうか。 「あの、えっと……し、失礼します。」 聞く勇気なんて当然持っていなかったから、僕は結局逃げるようにその場を後にするしかなかった。 軋む身体をおしてその場から離れた僕は、その足でステージのすぐ裏にある楽屋通路へと駆け込んでいた。 色々と気がかりなことは、本当に色んな意味であるのだけれど、それでも今は僕自身のことなんかより色さんだ。 初めての経験だろうにリハーサルは堂々とされていて、傍目には何の心配もないように振舞っていたけれど、僕にはわかった。 ほとんど口にしていなかった昼食。いつもよりぎゅっと引き結ばれていた口元。いつも以上に少ない口数。 僕には何をしてあげることもできないけれど、それでもやっぱり気になって。 こんなこともあるんじゃないかと今朝購入していた差し入れの袋を手に、僕はsiki様と貼り紙のされた扉をノックしようと手を伸ばし……思い直して引っ込める。 顔色、大丈夫だろうか。アマンダさんには気づかれたけど、色さんにバレて心配をかけるようなことはしたくない。 僕は両手でパシンと自らの両頬を叩いて気合を入れなおした。 普通に。あくまでも普通に。 緊張しているであろう色さんの前では色んな意味でいつも通りにしなくては。 ふぅ、と深呼吸して僕は改めて扉をノックしようと手を伸ばしたのだけれど、 「ストップ」 パシッと突如背後から伸びてきた手に腕を捕まれた。 「ちょ……むぐっ、」 驚きに声を上げようにも口を押さえられ塞がれる。 「be quiet」 背後から抱きしめるように静止をかけられ、すぐ耳元で聞こえてきた英語。 「っ、」 僕の身体は条件反射のように体温を上げ、その場に固まってしまった。

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