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第61話
――ごめんなさい、最後まで満足に弾いてあげられなくて。
ごめんなさい、ごめんなさい。
長年共に歩んできた相棒との最後の時、僕はずっと、ずっと、ケースを抱えて謝り続けた。
もっと弾いてあげたかった、もっとたくさんのステージに立って、一緒に色んな景色を見たかった。
だけど、駄目だったんだ。
誰も見向きもしない。それどころか疎まれてすらいる僕の音なんて、誰も聞いてくれない。
だから、諦めるんだ。もう弾かない。もうヴァイオリンは僕には必要ないんだ。
――ごめんなさい、僕では無理だったけど、次の人にはもっと弾いてもらえますように。
次の所有者に望みを託して、僕は大学卒業と同時にヴァイオリンを手放した。
久しぶりに数年前の事が脳裏をよぎって、僕は人知れず苦笑した。
今は、レコーディングに集中しないと。
過去の記憶を振り払うように僕は頭を振り、膝に乗せていたヴァイオリンケースから視線を上げる。
分厚いガラスの向こう、録音ブースからスピーカーを通して聞こえるヴァイオリンの音。
それがあらかじめ録音されていたsikiのピアノと重なり、息を飲むほどに美しい旋律をスタジオ内に響かせる。
ピアノとヴァイオリンの二重奏。本来ならば多重録音などせずに二人で同時に演奏するものなのだけれど、なにせオリヴァーの演奏が自由すぎる為に色 さんの判断でこうしてオリヴァーの音だけを後から録音することとなった。
今回の仕事は映画音楽、つまりは必要なシーンに合った曲調と演奏時間が条件となってくるわけだけど……その場のノリと勢いで自由な演奏をしてしまうオリヴァーを牽制するための苦肉の策というわけだ。
オリヴァーは演奏の邪魔にならないようにと片耳タイプのヘッドホンを装着して色さんの音を聴きながら、ヴァイオリンの音を乗せていく。
単純に合わせるだけじゃない、旋律の意味、強弱の意味、色さんが表現したいと五線の上に描いた音楽を正確に理解した上で、オリヴァーにしか出せない力強い音を重ねている。
ガラスの向こう、プラチナブロンドを揺らして弓を走らせるオリヴァーは、今にも笑い出しそうなくらい楽しそうだった。
「……やっぱバケモンだな。」
ポツリと落とされた色さんの声に、黒澤さんがですねぇ、と頷く。
わずか二週間という期間でオリヴァーは色さんの書いた五曲全てを自分のものにしていた。元々は色さんがヴァイオリンも弾く予定でレコーディングも終えていたので、僕も一度は色さんの演奏で聴いていたはずの曲なのだけれど、今このスタジオに響く音は全く違っていた。
病気で入院しているフィギュアスケーターの女性と、事故で肩を負傷したヴァイオリニストの男性との恋物語。
二人が互いに惹かれながら、ぶつかりながら、互いの隣にいるために苦難を乗り越えて自らの道を真っ直ぐ進んでいく。
色さんの音はそんな二人の未来を見守り励ますような優しさ溢れる音だったけど、オリヴァーの奏でる音は違う。
二人の背中を蹴り飛ばしかねない力強い音。強引に道を切り開き、前を向け、歩いて行けと、叱咤激励しているかのような。強引な優しさに、身体の底から湧き上がるような力を貰える、そんな音だ。
思い描いた景色を聴かせたい。常に誰かの為に、誰かを想い奏でるsikiの音と、音楽を愛し音を奏られる喜びを常に全力で表現するオリヴァーの音。
そう、だから僕にはオリヴァーの音が苦しいんだ。
以前のレコーディングの時にも感じた気持ちが、喉の奥からせり上がってくるのがわかる。あの時は思わず逃げだしてしまったけれど、僕は膝の上のヴァイオリンケースを握りしめ、ぎゅっと耐えた。
オリヴァーの音は、僕が忘れて…忘れようとしているものを思い起こさせる。
ヴァイオリンを初めて手にした時の気持ち。初めてきちんと音が出せるようになった時、曲を弾けた時、両親に聴いてもらって拍手を貰えた時。あの時、あの瞬間の高揚感。
僕が諦めようと、忘れようとしているものを、オリヴァーは大事に抱えて弾いているんだ。
いつだって全力で音楽への愛を叫んでいる。だから目を背けたいのに、けれど聴かずにはいられない。オリヴァー・グリーンフィールドの音は、誰の心をも揺さぶる力強さがある。
色さんのピアノが柔らかく響かせた主旋律を、オリヴァーのヴァイオリンが引き継ぐ。
力強く、けれど優しい音が心臓を震わせ身体の内に広がって、僕達に希望溢れる未来を予感させる。
ああ、終わってしまう。
この曲が、この音が。優しく苦しい音が終わってしまうんだ。
オリヴァーが弓を引き、最後の一音がゆっくりとスタジオ内の空気と混ざり合い、静かに響いて消えていく。そのしん、と静まり返った無音すら心震えた。
皆がようやくほっと呼吸をすることを思い出せたタイミングで、黒澤さんがゆっくりとミキサーのフェーダーを下げ、レコーディングを終了させる。それを見て、ガラス越しのオリヴァーがヴァイオリンを下ろした。
皆の視線が色さんへと向けられる。
音楽監督である色さんには、この音はどう響いたんだろう。
全員の視線を受けて、色さんはゆっくりとその場に立ち上がった。そうして、
パチパチパチ
オリヴァーへ向けて手を打った。
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