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第62話

狭いスタジオに響く拍手。それが全てだった。 (しき)さんは認めたんだ、オリヴァーの音を。 黒澤さんも僕も、ほとんど同時にその場に立ち上がってガラス越しに拍手を送った。オリヴァーのヴァイオリンケースを落とさないよう抱えたまま、お疲れ様でしたの意味と、その演奏の素晴らしさを賞賛するために。 皆の賞賛を受けてオリヴァーはふふん、と得意げに胸をそらせた。 そうしてそのままこちらのブースに戻ってくるのかと思いきや、オリヴァーが色さんに向けてこいこいと人差し指を動かす。オリヴァー側のマイクを落としていたので声は聞こえなかったけれど、色さんはその意味を正確に理解して重い息を吐いた。 「……(すい)さん、ここ、あとどのくらい使える?」 「えっと、二時間は大丈夫ですよ。」 腕の時計を確認してそう告げれば、色さんは自らの足元に立てかけていた色さんのヴァイオリンケースを片手に録音ブースへと入っていく。 『ん、なんだシキはピアノじゃないのか。』 『あのなぁ、俺はお前の伴奏者じゃないんだからな。たまには弾かせろ。』 ……黒澤さん、こっそりマイク入れ直してる。 これって盗み聞きなのでは?という僕の無言の問いかけは、口笛と共に見事にスルーされた。まぁ、僕も気にはなるので止めはしないけれど。 僕らが聞いているのをわかっているのかいないのか、わいのわいのと曲を言い合う声がスピーカーから聞こえてくる。 どうやら二人とも、弾き足りなかったし、弾きたかったらしい。その姿はまるで放課後カラオケではしゃぐ学生みたいで、僕は黒澤さんとほとんど同じタイミングで笑ってしまっていた。 アマンダさんはというと、あきれた、とこめかみを抑えている。 「クソガキを楽しませるために連れてきたんじゃないんだけど。」 「まぁまぁ。おかげさまで無事レコーディングも終わりましたし、少しくらい息抜きさせてあげてもいいじゃないっすか。」 「音楽の息抜きが音楽って意味わからないわ。これだから音楽バカは。」 はぁ、というアマンダさんのため息とほとんど同時にスピーカーからヴァイオリンの音が聴こえてきた。 どうやら一曲目はサラサーテに決まったらしい。 「ふはっ、いきなりとばすなぁ。」 黒澤さんの苦笑いはピッタリと息のあった高音にかき消された。 パブロ・デ・サラサーテ作曲、ナヴァラ。肩慣らしの最初の一曲に、なんて軽く弾ける曲ではないはずなのだけれど。 優雅な曲調の裏ではフラジオレットに左手でのピチカート等々、中々に高度な技術を要求される。それをリズムを刻んでくれるピアノ伴奏なしで寸分違わずに合わせ、かつ互いに笑いながら楽しそうに弾いているのだから、これはもう、なんというか。 「……これ、勝手に録音しちゃダメですかね。」 「あ、ずるい!するなら私にもCD分けて下さい!」 「貴方達……揃いも揃って、ここには音楽バカしかいないわけね。」 じと、とアマンダさんの視線が痛い。 だけど、オリヴァー・グリーンフィールドとsikiの二重奏、こんな貴重な音を聞かされて平静でいろという方が無理なのだ。 だって、ねぇ、と黒澤さんと顔を見合せ言葉を濁せば、アマンダさんの口から諦めのため息が漏れた。 「観客もいない、金にもならない、こんな場所で弾いたって意味はないでしょうに。」 ぼやきながらアマンダさんは自らの鞄の中からスマホを取り出す。表示されている時間といくつかのメールを確認したのだろうその視線が、再び僕へと向けられた。 「予定は全て消化できたし、私は金になる話をしてくるわ。今回のコンサートのスポンサー様に時間があれば会いたいって呼ばれてたの。日本を経つ前に次回の話を詰めておきたいらしいから、あとはお願いしていいかしら。」 「へ、あの、オリヴァーは連れていかなくていいんですか?」 僕の疑問を、アマンダさんは鼻で笑い飛ばした。 「連れて行っても邪魔なだけよ。それに……」 鞄を肩にかけ、席を立ったアマンダさんは僕の耳元に顔を寄せる。 「何かしら理由をつけて二人っきりにさせろって言われてるの。」 「っ、」 思わず抱えていた預かり物のヴァイオリンケースを落としそうになって、慌てて抱え直した。 ふふ、と楽し後に笑うアマンダさんを前に、僕の体温は急激に上昇していく。 「えっと、あの、」 「ま、頑張ってね。」 ぽん、と肩に手を置かれれば、思わず身体が跳ね上がった。 「あー、何ですか二人して。彗さん、美人と密談なんて、何企んでるんですぅ?」 「え、いえ、私は別に、」 企んでるのは多分オリヴァーです、なんて言えるはずもなく。言葉を詰まらせる僕に、アマンダさんはまたふふ、と笑った。 「それじゃ、あとはよろしく。……ミスタークロサワ、うちのクソガキがお世話になりました。機会があったらまたお会いしましょ。」 「あ、はい。いちファンとしても、また色さんと一緒に仕事できるの楽しみにしてますよ。」 黒澤さんとアマンダさんは握手を交わし、アマンダさんはヒラヒラと手を振りながらそのままスタジオを出ていった。 「担当アーティストを任せるなんて、彗さんいつの間にアマンダさんと親しくなってたんですか?」 いいなぁ、なんて黒澤さんの視線は苦笑いで受け流した。 まずい。 正直笑ってる場合じゃない。 僕は背筋につ、と汗が伝っていくのを感じていた。 アマンダさんから任されてしまった。しかも僕の膝の上にはオリヴァーのヴァイオリンケース。これはどう考えても逃げられる状況じゃない。 『オリー、次は?』 『シキのやりたい曲でいいぞ。……時間はまだたっぷりあるみたいだからな。』 どうしよう。問題なくレコーディングが終了したから、オリヴァーと顔を合わせるのは今日が最後だと甘く考えていた。 レコーディングさえ終えてしまえば、後はひたすら逃げ切ればいいと……思っていたのに。 考えろ、考えるんだ。 何か、何か、このあとすんなり帰れる方法が、きっとどこかに―― ガラス越し、スピーカーから聴こえてくる貴重な音を聴く余裕もなく必死に考え続けた結果、結局僕は打開策を見つけられず、オリヴァーに振りわまされる選択しか残されていなかった。

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