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第63話
スタジオの使用時間ギリギリまで思う存分引き続けた二人。それをご自宅とホテルまで送り届けるのは当然マネージャーとしての僕の仕事なわけで。
「色 さんの寮の方が遠いですから、先にオリヴァーをホテルまで…」
「あ、いや、今日は予定あって自宅の方でいいんだ。近いし、俺はタクシー拾って帰るからオリヴァーだけ送ってやって。」
「あ…、えっと、はい。…………わかりました。」
最後の希望だった色さんにキッパリとそう言われてしまってはもうお手上げだった。
「オリー、明日帰るんだろ?」
「ああ、昼にはホテルを出る。まぁ、ワールドツアーが終わったらまたすぐに日本に来るつもりだがな。」
「次は来る前に声かけろよ?実家でハウスパーティーくらいしてやるから。」
握手を交わして、軽くハグをして。
若い音楽家同士に芽生えた友情を微笑ましく眺める余裕すらなく、僕は今からのことを考えるとおもーいため息をはかずにはいられなかった。
タクシーを呼び色さんの姿が見えなくなるまでお見送りすれば、僕にはもうこの人と面と向き合うしかなくなったわけで。
「さぁ、最後の晩餐といこうじゃないか、シー?」
「……ですよね。」
崖っぷちに立たされた僕の隣でニヤリと口の端を歪めるオリヴァーに、僕の心はいまだ預かりっぱなしのヴァイオリンよりも重く沈んでいった。
仕事は終わったわけだし、まっすぐホテルまでお見送り……などということをオリヴァーが許してくれるはずもなく、僕は当然のようにいつもの駅前のコインパーキングに車を停め、いつものように洋食屋さん「comodo」へと連行されていた。
空はようやく青にわずかな緋色を落とし始めた程度の時間。一応キャップとサングラスを着用してくれてはいるけれど、平日の、しかも早すぎる時間帯のため本日もほぼ貸切状態で利用させてもらっている。
オリヴァーは明日の昼には日本を発つ。絶対に口説き落とすと豪語していた彼との攻防戦も今夜が最後になるんだろう。
彼の勢いに流されては駄目だ。遠く離れた地で、彼の僕への執着が今のように続くとは思えない。僕のような平凡な人間に熱をあげる理由なんてないと、離れればきっと気づくはず。次の地にはきっと僕よりも彼に見合う人がいるはずなんだから。
だから、何を言われても何としても断る。……そう思っていたのだけれど。
「やはり日本を発つ前にオーナーの作るナポリタンは食べておかねばな。」
「……またいつでも食いに来ればいい。」
山盛りのナポリタンに、ハンバーグにスープにサラダ。それから以前誰かさんがメニューを増やせとリクエストしたからか、種類が増えていたパスタをいくつかと、本日もカウンターには所狭しと大量の料理が並べられている。
それらを片っ端からオリヴァーが胃袋に収めていく光景も、もう見慣れたものだ。
先程からいつものように強制的に料理をシェアされて、僕も胃袋が悲鳴をあげるまで食べさせられて……いるだけだった。
最後の夜。オリヴァーは僕に何を言うでもなくただひたすらに食事を楽しんでいる。
それでいいはずなのだけれど、予想外の態度に僕はそわそわと気持ちが落ち着かない。
……諦めてくれたのかな。
隣を盗み見れば、オリヴァーはハムスターみたいに頬を膨らませながら、器用にオーナーさんとの会話を楽しんでいる。
「お前さん、次はいつ日本に来るんだ?」
「ん、いまやってるツアーが今年いっぱいあるから、次は来年だな。」
「そうか。……あんたも寂しくなるな。」
言葉の最後は日本語だった。
「あ、えっと……」
僕に向けられたオーナーさんの視線に、僕は即答できずに視線を泳がせる。
当たり前だったはずの、この人がいない日常。それは僕にとって「寂しい」んだろうか。
ふいに浮かんだ考えに、胸の奥がざわついた。
チラリと隣を見れば、オリヴァーは何故だかむっ、と口元をへの字に曲げる。
「お前達、またオレの前で日本語とは……オレに隠れて何を話している?」
「へ?べ、べつにたいした話は、」
言葉の真意を確かめるべくぐ、と近づいてきたオーシャンブルーが、僕の瞳をのぞき込む。
「あ、あの、」
思わず仰け反って逃げようとしたのだけれど、肩に腕を回されギュッと引き寄せられてしまった。
じと、とした視線が、オーナーさんへと向けられる。
「言っとくが、シーを口説いていいのはオレだけだからな?」
「な、」
耳元で聞こえた言葉に、一瞬にして全身の血液が沸騰する。
けれど、真っ赤になっているだろう僕とは対照的に、オーナーさんははいはいと呆れたように肩を竦めただけだった。
「人様の恋人に手ェだそうなんざ野暮なことはしねぇ…」
「ち、違います!」
オーナーさんの言葉に、僕は咄嗟に否定の声を上げオリヴァーを突き飛ばしていた。たぶん日本語で叫んでしまっていたけれど、オリヴァーにもその意味は伝わったのだろう、む、と口元がへの字に曲げられる。
不機嫌にハンバーグにナイフを突き立てるその様子に、寡黙なオーナーさんの口の端に笑みが浮かんだ。
「なんだ、お前さんもまだ口説き落としてないんじゃないか。」
「うるさい。」
拗ねたように吐き捨て、オーシャンブルーが僕を見つめた。
けれど、それはすぐにそらされ手元のパスタへ。
「今のままじゃ平凡な誰かさんはオレの話を聞いてくれないらしいからな。今口説いても無駄なだけだ。」
オリヴァーはフォークにパスタを巻きつけながら、不服そうに口を尖らせる。
どうやら完全に諦めたわけではないらしい。でも、だとすれば彼はどうするつもりなんだろう。
じ、と様子を伺っていたら、オリヴァーは空になっていた僕の皿へパスタをのせてきた。
「とにかく、今オレは日本での最後の夜を楽しむために来てるんだ。ほら、シーもこれを食え、美味いぞ。」
「はぁ、」
オリヴァーの考えが読めない。僕はどうしたらいいんだろう。
何も言われないのなら、断ることすら出来ない。
純粋に夕食を楽しむオリヴァーの隣で、シェアされたパスタを一口。
美味しいはずの濃厚なクリームソースの味すら、今の僕にはよくわからなかった。
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