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第64話

宣言通り純粋に夕食を楽しんだオリヴァー。 空は茜色を通り越して濃紺へと染まり始めている。貸切状態だった店にも仕事帰りのサラリーマンであろう人の姿がひと組、また一組と増えてきた。 目立たないように店の隅のカウンターで、オリヴァーにはキャップとサングラスを着用してもらってはいるけれど、そろそろここを出るべきだろう。 僕はデザートのプリンを幸せそうに頬張るオリヴァーに声をかける。 「食べ終わったら、そろそろ帰りましょうか。」 「ん?断る。」 即答された。 いや、もう十分すぎるくらい食事は堪能したはずですけど。少なくとも僕はもう水一滴たりとも入りそうにないのですけれど。 僕のじとっとした視線など気にすることなく、オリヴァーはプリンの最後の一口を名残惜しそうに噛み締めてから目の前でお皿を拭いていたオーナーさんに声をかけた。 「おい、オーナー。一曲弾くが、なにがいい?」 「ちょっ、何言って!?」 思わず大声をあげてしまって、あわてて自らの口を押さえた。何事かと注がれる周囲の視線にへこへこと頭を下げながら、オリヴァーに小声で抗議をする。 「なに言ってるんですか!駄目に決まってるでしょう!?」 「ちゃんと変装してるんだしべつにいいだろう?オーナーには色々世話になったしな。」 「いや、だからって駄目なものは駄目です!」 止めようとしているにもかかわらず、オリヴァーの手はカウンターの端の椅子にのせていたヴァイオリンケースに伸びようとしていて、あわてて掴んでやめさせた。 いくらなんでも無茶すぎる。サングラスとキャップで髪と瞳を隠しているといってもヴァイオリンなんて弾かれた日には間違いなく一発でバレる。クラシックに興味のない人間ですらここ数日テレビで幾度となく放映されているオリヴァーの顔は目にしているはずだし、そもそもこの人どれだけ変装しようともオーラが凄すぎて何も隠せてないのだから。それがこんな小さな洋食屋さんに現れたなんてことになったら、大パニック必至。 「見つかれば店に人が殺到するかもしれません。最悪もう二度とこのお店に来れなくなっちゃいますよ?」 「む、それは困る。」 「だ、だったら、」 「でもなぁ、オーナーはチップすら受け取らないし、何もせず帰るわけにもいかんな。」 べつに礼なんていらん、というオーナーさんの言葉はオリヴァーに聞こえているのかいないのか。 オリヴァーは押さえつけていた僕の手を払い唐突に席を立った。 「ヴァイオリ二ストだとバレなきゃいいんだろ?」 ニヤリと口の端に笑みを浮かべるオリヴァーをわけもわからず見つめていたら彼はそのまま背後の壁際に置かれていたアップライトピアノへ。 「あ、ちょ、」 こちらが静止するより早く、オリヴァーは僕から逃げるように素早くピアノの前に座り、鍵盤に指を走らせた。 するりと長い指が鍵盤を撫ぜれば、店内に落とされる音。クラシックではほとんど聴かない独特のマイナーコードがまるでスキップをするかのように軽快に流れ、店内にいた人々は反射的にオリヴァーへと視線を向けた。 小さな洋食屋さんが、一瞬にして小洒落たバーにでも来たかのような艶めいた空気をまとう。 「あ、……」 やめさせなければいけないところだと思う。だけど僕は動けなかった。それどころか踏み出そうとしていた足はひっこみ、そのままカウンターに逆戻り。 そうだ、彼はピアノに関しても元プロなんだ。 全部聴いてみたいと、思ってしまった。オリヴァーのピアノは、そう思わせる音だった。周りのお客も突然始まった演奏会に食事の手を止め演奏に耳を傾ける。 ジャズ独特のリズムとアクセント。どこかで聞いたことのあるこの曲名は果たしてなんだっただろう。 「……Take the 'A' Train」 答えはカウンターの向こうから聞こえてきた。 独り言のようにポツリと漏らされたオーナーさんの言葉に、僕はようやく思い出す。 「A列車でいこう、ですか。」 「ああ。ジャズの定番だな。」 ジャズといえばサックスやトランペット等金管楽器のイメージが強いから、ピアノだけだと印象が変わる。 金管の力強い音とは違って軽快な音が歌うように跳びはねながら流れていく、うきうきと心が弾む曲だ。 演奏するオリヴァーも、ヴァイオリンの時と同じように子供みたいにはしゃいでいた。 そんな彼の興奮を帯びた熱気はピアノの音に乗って店内にあっという間に広がっていく。 あの寡黙なオーナーさんですら、食器を拭きあげる手が止まってしまっていた。 「……白状しちまうと、俺はあいつの爺さんの大ファンでな。」 「え、」 オリヴァーのおじい様といえば、ジャズ界では知らぬ者のいない有名なトランペット奏者。同時にオリヴァーがジャズピアニストとして所属していた楽団の創設者だったはず。 そうか、だからオーナーさんはオリヴァーの事を知っていたんだ。 「ジャズ界の神童だって言われてたやつが突然クラシックに転向したってニュース聞いた時は驚いたよ。逃げただの諦めたのかだの、マスコミは好き勝手書いてたが…………そうか、べつに捨てたわけじゃないんだな。」 呟かれた言葉は、淡々としていたようでどこか嬉しさが含まれていた気がした。 クラシック界にとっては彗星の如く現れた天才ヴァイオリニスト。でもそうか、その為に彼はジャズピアニストという道を自ら絶ったのか。こんなに楽しそうに弾いているのに、それを上回るものを見つけてしまったから。 オリヴァーの指がピアノの端から端まで駆け回る。鍵盤をかき鳴らせば、わ、と店内の客が沸き立った。 ジャズの楽譜はあってないようなものだと聞くけれど、本当に好き放題弾いているようだ。 滅茶苦茶なようで、それでも人を惹きつけてやまない。彼の作り出す音の波は、店中を飲み込んで気がつけば皆溺れてしまっていた。 「……きっとオリヴァーは他人から何を言われようと関係ないんでしょうね。好きな時に、自分が好きなものを弾く。それが彼にとって一番大切なことなんだと思います。」 ジャズも好き、でもグァルネリの音に惹かれた。 滅茶苦茶だって周りが思っても、それでも彼は自分の愛を貫いて結果他人を認めさせてしまう。 「……ジャズもいいですね。」 いつの間にか完全に音に聴き入って、そう呟いてしまっていた。オリヴァーの作り出す音の波に一番溺れてしまっているのはきっと僕なんだろう。 オーナーさんは口の端にニヤリと意味深な笑みを浮かべる。 「ジャズはいいぞ。どう弾くも自由、どう参加するも自由だからな。」 参加?浮かんだ疑問の答えはすぐにわかった。 パンッ パンッ かき鳴らされるピアノに合わせて、誰かがはじめた手拍子。Hey!とオリヴァーが振り返り声をあげれば、一人、また一人。音は集まり大きくなって、オリヴァーの奏でる曲の一部になっていく。 カウンター越しに演奏を聴いていたオーナーさんも、気がつけばオリヴァーへ手拍子をおくっていた。 僕はじ、と自らの手に視線を落とす。 参加する。この手で。 この音に聴き溺れるんじゃない、この音の波に……のってみたい。 パシンッ 僕が手を叩いた瞬間、ジャンッと応えるようにピアノが鳴り響いた。 音は身体の中を駆け巡り、ゾクリと背筋を震わせる。 あの時みたいだ。この場所で、オリヴァーの伴奏をしたあの時みたい。 トクトクと高鳴る早い鼓動を手拍子に変えて、オリヴァーが作る音の波の上を僕は駆けた。 力強いピアノに合わせて店中から送られる手拍子に、オリヴァーがピアノで返す。 送っては返す音の波は次第に速度を上げて、この狭い空間が熱気に満たされる。 楽しい。 この音の中を駆けるのが、この音の一部になれるのが、こんなにも楽しい。 最後の和音がジャカジャカとかき鳴らされてダンッと最後の一音が鳴らされた。 その瞬間、店のあちこちから一斉に拍手と歓声が湧く。誰もが演奏に気持ちを高揚させていた。 興奮してる。だって、楽しかったから。 音を作るって、音楽って、やっぱり楽しい。 僕は店内で目立ちまくってしまったオリヴァーを咎めることも忘れて、自慢げにふんぞり返る彼に拍手を送りながら余韻に浸っていた。

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