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第65話
結局、突如ピアノを弾き始めた外国人は近くの音大の留学生として店内のお客達に受け入れられ、オリヴァーは沸き立つ観客のリクエストにアンコールまでしっかり応えていた。
オーナーさんへの礼だと言いながら、弾いている本人が一番楽しんでいて。結局店を出る頃には辺りはすっかり暗くなってしまい、夜空には星が煌めいていた。
「じつに楽しかったな!」
「ふふ、……オーナーさんも嬉しそうでしたね。」
店を出て、最寄りの駅近くのコインパーキングまでのわずかな道のり。
よほど楽しかったのかいつも以上に饒舌なオリヴァーの隣で、僕はなんとなく彼の顔を直視出来ずに誤魔化すように星空を見上げた。
「……楽しかったですね。」
夜風を涼しく感じるのは、たぶんまだあの興奮から抜けきれていないからなんだと思う。
それくらい、あの店での時間は楽しかった。
楽しかった……けれど。同時にモヤモヤとしたものが、僕の心臓の底には広がっていた。
「シーも弾けばよかったのに。」
「いえ、……何度も言ってるでしょう?僕はもう弾かないって。」
弾かないと決めたのに。諦めたのに。
僕は先程までの時間を楽しいと感じてしまった。音に乗って自らの手で音を作る。それは、僕がもう二度としないと決めていたことのはずなのに。
僕は肩にかけていたヴァイオリンケースを背負いなおした。
今は使用していない、オリヴァーのファーストヴァイオリン。それでも年代物の貴重な楽器を車の中に置いておくことはできず、かといって既に愛器のグァルネリを肌身離さず抱えているオリヴァーに両方を持たせるわけにもいかず。結果こうして今日一日預かってしまっているこのケースの重みは、嫌でも僕に過去のことを思い起こさせる。
そしておそらく、オリヴァーはそれをわかった上で僕にヴァイオリンをあずけている。
彼の考えがわからない。
誰も聞いてくれない音を奏でたって意味はない。彼は僕の言葉を忘れてしまったんだろうか。
店でも客にまだ弾いてくれとリクエストされるたびに、僕に一緒に弾かないかと声をかけてきていたし、オリヴァーはいったい何を考えているんだろう?
顔が火照るほど楽しかったのに、苦しい。僕の心は矛盾を抱えて、出口の見つからない感情はぐるぐると身体の中を渦巻くばかり。
そんな僕の隣でオリヴァーは声を弾ませている。
「シーも弾けばよかったのに。」
「……言ったでしょう?僕は音楽を諦めたんです。もう弾きませんよ。」
オリヴァーの足が、突然ピタリと止まった。
何事かと僕も立ち止まれば、オリヴァーは僕を見つめ小首を傾げる。
「オリ……」
「なぁ、シー。シーは何故ヴァイオリンを弾かないんだ?」
「はい?」
嫌味ではなく、本当に至極純粋に疑問をぶつけられた。
説明、したはずなのに。
「……言ったでしょう?才能がなかったんです。誰からも求められていない音なんて、弾いても意味は無いんです。」
なんで、またこんな事を言わされてるんだろう。彼は僕を傷つけたいのだろうか。なんで、なんでこんなこと。
「っ、音楽は諦めたんです。」
「ふむ、それだ。」
震える声で言葉を絞り出せば、オリヴァーの指がぴ、と僕を指し示した。
「……はい?」
「ずっと気になってたんだ。諦める、とはどういう意味だ?英語間違ってないか?」
「……え?」
諦める……GIVE UP、で意味はあっているはずだけれど。オリヴァーには伝わっていないようで眉をひそめ首を傾げる。
「諦めるとは、どうすることも出来ずに断念することだろう?シーはヴァイオリンを弾ける二本の腕をもってる。ビブラートをかける指も、身体とヴァイオリンを支える二本の足だってある。」
「えっと、」
「誰よりも音楽を愛してるくせに、なぜ弾かない?」
言葉が出てこなかった。
なぜ、
なぜって、だって、僕は……
何も言えず立ちすくむ僕を置いて、オリヴァーは止まっていた歩みを進める。
あわてて彼の半歩後ろから追いかけた。
「オレは弾くぞ。弾きたいからな。」
「それは、オリヴァーはヴァイオリニストなんですから…」
「ん、そうだな。弾くぞ、今から。」
「今!?え、ちょ、」
状況が理解できないまま、オリヴァーは声に出して笑いながら僕から逃げるように歩みを早める。あわてて追いつく頃には、彼は駅前に設置されていたベンチの上で愛器の入ったケースを置き、開いていた。
「え、ちょ、本気で弾くんですか!?」
「これだけ暗いんだからオレだとバレることもないだろ?」
「いや、そういう問題じゃ、」
「ピアノ弾いてたらこいつの音も聴きたくなった。」
「だからってなんでこんな所で、」
僕の言葉なんて無視してケースからグァルネリを取り出したオリヴァーは、素知らぬ顔で調弦を始めている。
仕事終わりの人々が家路を急ぐ時間帯。皆僕らのことなんて気にもとめずに素通りしてはいるけれど、こんな場所で弾こうだなんて。
「場所なんてどこでもいいだろ?弾きたいから弾く。聴きたいから弾く。きかせたいからひくそれだけだ。」
駅前の隅に設置されたベンチ。駅から漏れる明かりと街頭の淡い光だけが僕達を照らす薄暗いこの場所で、オリヴァーはグァルネリを構えた。
オーシャンブルーの瞳が、じ、と僕を見つめ小さく笑う。
「シー、オレの愛を存分に聴くといい。」
愛、って。
恥ずかしげもなく口にしたオリヴァーは、小さく息を吐いてからゆっくりと弓を滑らせた。
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