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第66話
ホ長調の優しい音が、ゆっくりと緩やかに空気を震わせる。
突然響いたヴァイオリンの音に道行く人は一瞬視線を向けるけれど、すぐに皆再び家路へと足を進める。オリヴァーの隣に立つ僕以外に観客もいない夜のコンサートは、彼に似合わず穏やかな音で始まった。
じんわりと身体に染み入るように響く音。聴く人を優しい気持ちにさせる旋律。
エドワード・エルガー作曲の「愛の挨拶」。
妻となる人に婚約の記念に贈ったとされるこの曲は年齢や社会的地位、宗教の違いなどの反対を全て押し切って愛する人と結ばれた、エルガーの喜びと愛に満ちた曲だ。
添い遂げることとなる人へ、優美で甘美な彼からの愛。
恋人への愛おしさが優しい旋律から溢れ出る、そんな曲……のはずなのだけれど。
薄暗い街灯の下、オリヴァーのプラチナブロンドが揺れ、彼の指が弓を引く。
グァルネリから響く、力強い音。
足元から身体を揺さぶるような、強い、強い音。
……なんて、強引な愛なんだろう。
聴く人間のことなんてお構いなし。一方的に、思うがままに響かせる自由な愛に、けれど僕の心臓はぐわん、と大きく揺れた。
本当に、この人は。
それは紛れもなくオリヴァーの愛だった。聴かせたいから弾く。弾きたいから弾く。……聴きたいから弾く。
彼の言葉通り、彼はグァルネリの、自らの紡ぎ出す音を愛してるんだ。彼の音からはヴァイオリンを弾ける喜びと愛が溢れ出している。
どこで弾こうと、誰が聞いてようと関係ない。ただひたすらに自分の愛を貫いて、そしてそれを押し付けてくるんだ。
お前もそうだろ?彼の声が穏やかな音に乗って頭の中に響く。
瞳から、熱いものがこぼれ落ちた。
でも僕はそれを拭うことすら忘れて、オリヴァーの音を受け止める。
僕らの前を通り過ぎようとしていたスーツ姿の女性が、僕の少し後ろで足を止めた。
次の電車を気にしてか、腕時計を見つめながら先を急いでいた男性も顔を上げピタリと足を止める。
向かいのコンビニの前で談笑していた若い男女は、話を止めてこちらを指さしながら引き寄せられるようにやってきた。
自由すぎて、強引で、けれど、その力強さと純粋さはいつだって人を惹きつける。
僕はなんで、ここでこうしてオリヴァーの音を聴いているんだっけ。
優しい穏やかな旋律のはずなのに、僕の心臓はトクトクと速度を上げていく。
――シーはなぜ弾かないんだ?
オリヴァーの愛が、僕に問いかける。
誰からも必要とされない音、
誰も聞いてくれない、意味の無い音、
……違う。そうじゃない、そうじゃないんだ。だってオリヴァーは弾いてるじゃないか。
誰に聞かれずとも、必要とされずとも、彼はこんなにも力強く愛を響かせる。
だって彼は知っているから。
誰からも、なんてことはありえないことを。
いつだって、なにがあったって、ただ一人だけは……自分だけは、自らの奏でる音を愛してるって。
なんで、なんで僕は今、ここでこうしてオリヴァーの音を聴いているだけなんだっけ。
ぐちゃぐちゃな僕の思考を落ち着かせるかのように、ヴァイオリンの音がそっと空気を揺らした。
力強く足元を震わせていたはずの音は、いつの間にか優しい波となって足元を撫ぜて、穏やかに引いていく。
最後の一音は囁くように空気に溶けて消えていった。
余韻を響かせてからゆっくりと弓を下ろしたオリヴァーに、いつの間にか集まっていた観客からまばらな拍手が送られる。
彼は弓を持っていた手を軽くあげてそれに応えてから、拍手すら忘れて呆然と立ち尽くす僕にまっすぐ向き直った。
トクトクと早鐘を打つ心臓。
オリヴァーはニヤリと、口の端を上げながら勝ち誇った顔で口を開いた。
「で?シーは弾かないのか?」
ドクン、と心臓が脈打ち止まる。
問われて僕は俯いた。
音が止み、足を止めていた人達は僕らのことを気にしつつもまた歩みだしここから離れていく。
でも、僕はすぐには動けなかった。
弾かないのか?
オリヴァーの言葉に、僕の瞳からまた一筋涙がこぼれ落ちて頬をつたう。
誰も聞いてくれない、それどころか疎まれてすらいた僕の音楽。だから諦めた僕の音。
でも、でも、
違う。違った。
僕は、僕の音を信じて愛してあげることからただ逃げていただけだったんだ。
「……き、たい、」
誰も聞いてくれなくても、それでも、僕は、僕は、
「……ひきたい、弾きたい、弾きたい、弾きたい!」
僕は、僕の音を聴きたい。
ぐっと肩にかけていたヴァイオリンケースのベルトを握りしめ顔を上げれば、薄暗い夜の中、オーシャンブルーは優しく煌めいて笑った。
「だったら弾けばいい。シーの手にしているのヴァイオリンで、シーはヴァイオリニストだろう?」
貸してやるぞ。
その言葉に背を押され、僕の止まっていた足はぎこちなく動き出した。
駅前に設置された小さなベンチ。オリヴァーのヴァイオリンケースが置かれていた隣に、肩にかけていたケースを下ろす。その場に膝をつき震える指でケースを開けば、飴色をしたヴァイオリンが姿を現した。
「……ぁ、」
弦が新しい。
スタジオでは遠巻きにしか見ていなかったから気づかなかったけど、これ、間違いなくごく最近張り替えたものじゃないですか。
弓だって、新品じゃないですか。
弾いてないって、言ったくせに。なんで。
誰の、ために?
滲む視界を拭って問えば、オリヴァーはふふん、とふんぞり返って笑うだけ。
ああもう、この人は本当に。
震える手でケースからヴァイオリンを取り出す。
懐かしい感触。でも、身体が覚えている。
明らかに新品だろう弓には固形の松脂を多めに塗り滑らせる。
立ち上がり左肩に懐かしい重みを乗せれば、僕の指は無意識のうちに糸巻きへと伸びていた。
やっぱり、長年弾いていないはずのヴァイオリンなのにほとんど音が狂っていない。
音叉もチューナーも必要ない。身体が覚えてる。A線、ラの音。D線、G線、E線。
一弦一弦合わせていくたびに、身体が喜びに震える。
弾ける。弾きたい。僕は僕の音を、この人の前で。
優しく見つめるオーシャンブルーの前で、ぐ、と握りしめた弓を引けば耳元で懐かしい和音が力強く響いた。
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