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第67話

調弦を確認するための和音、それだけでも身体が喜びに震える。 弾けるんだ。弾いていいんだ。 今まで理由をつけてしまい込んでいたものが溢れ出てきて、僕は手にしていたヴァイオリンを胸に抱えて大きく息を吐いた。 そんな僕の様子を小さく笑ったオリヴァーは、おろしていたヴァイオリンを構え直し、糸巻きに触れる。 先程きちんと調弦して、綺麗な音を響かせていたのに。 彼はほんのわずかに調整をしなおして音を鳴らした。 「……あ、」 442Hz。オリヴァーがいつも弾いている国際基準じゃなくて、僕の音に合わせて調弦し直したんだ。 呆然と見つめる僕をニヤリと笑ったオリヴァーは、ゆっくりと弓を引く。 遠くから風が吹き込むように、ピアニッシモから始まった音が穏やかに僕を通り抜けていく。木々を揺らすようなノスタルジックで柔らかなその音は、ざわりと僕の心を震わせた。 ……ずるい。なんで、この曲なんですか。 涙に滲む視線の先で、優しい色をしたオーシャンブルーが一瞬僕を見つめ、すぐに手元に視線を戻した。 優しく、どこか懐かしいニ長調の旋律。 そしてまた一音、オリヴァーの手から生み出された風は、優しく僕の背中を押す。 何度も、何度も聴いた曲だ。 楽譜なんてなくたって、音は身体が覚えてしまっている。もはやこの曲は、僕を形作る、僕の一部なんだから。 ゆっくりと弦に弓を下ろせば、僕の手から、僕の大好きな旋律が聴こえてきた。 夏の太陽が降り注ぐ、田舎の風景が見える優しい曲。 僕の、人生を変えた曲。 何度となく聴いて、何度となく心揺さぶられて、何度となく涙させられた旋律が、僕の手から生み出されていく。 じん、と込み上げてきたものに思わず叫び出したい衝動に駆られたけれど、ぐ、と耐えた。 今は、なによりもまずこの曲を弾ききりたかったから。 オリヴァーの優しい低音に、僕が主旋律をのせていく。大丈夫、弾ける。だって、力強いグァルネリの音が僕を支えてくれている。この音を信じてついていけば大丈夫だ。 弓を離して弦を自らの指ではじけば、ぴん、と跳ねる音。僕のピチカートに応えるように、オリヴァーも指をのばして弦をはじいた。 僕が弾いて、オリヴァーが引き継いで、また僕が弾いて。軽快に跳ねる音に心まで弾んで、いつしか僕らは顔を見合せ笑っていた。 音での会話をわずかな時間楽しんでから、オリヴァーから向けられた視線に僕は無言で頷く。 二人で同時にヴァイオリンに弓を置き、再び奏でる主旋律。 どこか懐かしい、心温まる旋律。 地を踏みしめる僕の足元から熱を持って込み上げるものが身体を震わせて、僕はそれをビブラートにのせる。 この演奏が、優れているものなのかどうかは僕にはわからない。人の心を動かせるようなものなのかもわからない。 けれど、一つだけ確かなことは、この演奏は僕にとって世界一愛おしい音だってこと。 オリヴァーと弾いた最後の一音は、僕の心の内にあった苦しさも悲しさも愛しさも楽しさも、全てを優しく抱き込んで身体の外へと連れ出してくれた。 この感覚、久しぶりだな。 左肩の重み、肩と指をつたう振動、耳元で聴こえる僕の音。 心地いい。僕は、こんな幸せなことを忘れてしまっていたんだ。 星空へ溶けていく音を、僕は夜空を見上げ最後の最後まで見送った。 余韻も全て夜に溶けきって、辺りに静寂が訪れる。 それでもなお僕の身体は打ち震えていて、少しでも鎮めるようにと長く息を吐いてから、ゆっくりとヴァイオリンをおろした。 パチパチパチ 瞬間聞こえてきた拍手に我に返る。 「……え、」 いつの間に。 気がつけば、僕とオリヴァーを囲むようにまばらに人が集まってきていた。 先程向かいのコンビニからオリヴァーのヴァイオリンを聴きに来ていた高校生らしい若い二人、そのまま残って聞いていてくれたんだ。それに塾帰りだろう学生さんに、スーツ姿のサラリーマンらしき人達。幾人かの人達が、オリヴァーと僕に、拍手を向けてくれている。 その光景は眼鏡越し、まるでテレビを見ているみたいに現実味がなくて。ほうけてしまっていた僕の背に、オリヴァーは優しく手を添える。 「ほら、何をぼけっとしている。オーディエンスに応えるのが演奏家の礼儀だろ?」 背中を押され、僕の身体は少しよろけて一歩前へ。 わずかにズレた眼鏡の位置を戻してからその場で一礼すれば、拍手はほんの少しだけ大きくなった。 聴いてもらえたんだ。 オリヴァーと……僕の、音。 自らの手元に視線を落とせば、視界に入るヴァイオリンと弓。顔を上げれば、目の前には優しい笑みを浮かべるオーシャンブルー。 ああ、これは現実なんだ。ようやく温度を持って胸に落ちてきた事実に、僕は弓を手にしたまま口元を抑えた。 「ねぇお兄さん達、もう弾かないのー?」 向かいのコンビニから来てくれていた女の子に期待のこもった眼差しを向けられたのだけれど、僕は頷いてごめんなさいと言うのが精一杯だった。 色んな事が起こって、感情がないまぜで、胸がいっぱいで。遅れてやってきた緊張にカタカタと震える手では、もう弾けそうになかったから。 「ウチら毎日ここいるし、また弾きに来てよ。」 嬉しい言葉には、なんとなく意味を推し量ったのだろうオリヴァーが手を振ることで答えてくれた。それで周りの人達も終わりだと悟ったのだろう。皆また本来の目的の為に止めていた足を動かし始め、僕達の周りには静寂が訪れる。 どうしよう、言葉が出てこない。 ありがとうと、たった五文字の言葉を言うことすら出来そうになかった。少しでも口を開けば涙と嗚咽がこぼれ落ちそうで、僕はその場を動くことも出来ず、ヴァイオリンを手にしたまま自らの口元を押さえて込み上げてくるものをぐっと耐える。 俯く僕に一歩、ゆっくりと歩み寄ったオリヴァーは、僕の髪を雑にかきみだした。 「これがシーの音か。……確かに華はないな。」 「オリヴァー、……」 なぜか嬉しそうに告げられた言葉に、思わずそのオーシャンブルーを直視してしまっていた。 「シーの音は華ではなくキャンドルだろ。」 僕を見下ろすオーシャンブルーが、優しく細められる。 「一瞬で人を惹きつける華やかさはないが、気がつけばそこにあって明かりを灯している。消えて初めて大事なものだったと気づくくらいゆっくり優しく寄り添う……そんな温かい音だな。」 「っ、……」 再び優しく髪を撫ぜられれば、もう限界だった。 「っ、うゔぁああっ、」 堰を切ったように溢れ出た涙が、僕の両頬を伝い落ちていく。 「……っふ、……うゔぅ……」 眼鏡をずらして溢れたものを拭おうとするも、涙は止めどなく流れてしまい意味をなさない。 認めてくれた。 こんな僕を、僕の音を。 泣きじゃくる僕のとなりで、オリヴァーはあー、とかける言葉に迷い、結局僕の手からそっとヴァイオリンを抜き取りケースに戻してくれたあとは、何も言わずただそこにいてくれた。 手を引かれて、ベンチに二人で座って。街灯の下、じ、と僕を見つめるオーシャンブルー。 そんな不器用な優しさに、僕の涙は勢いを増すばかりで。二十七歳のいい歳した大人が、人前で延々泣きじゃくってしまった。 ひとしきり泣いて、泣いて、泣いて。時折髪を撫ぜてくれる優しい手にまた泣いて。 止めようにも、溢れ出てくる。 長い時間、僕の心の奥深くに埋もれていたものが、目の前のこの人への想いと共に。 もう、自分で自分を抑えられない。 「……シー、」 ゆっくりと伸びてきた手が、僕の顔から眼鏡を抜き取った。 涙を拭い、泣き腫らす僕の目元を優しくなぞった指は、そのまま頬をなぞり顎のラインを辿る。 「え、……っと、オリヴァー?」 慰めるでもない、励ますでもない。明らかに別の意図をもって僕に触れる手に、暴走していた感情が驚きに上書きされて涙ごとピタリと止まった。 なんで。そう僕が口にするよりも早く、目の前のその人は吐息が感じられるほどに顔を近づけ、勝ち誇った顔で笑った。 「シーのヴァイオリンはしっかりとこの耳で聴いたぞ。……で、オレと音楽家でヴァイオリニストのシーは、当然今からオレに口説かれるんだよな?」 「……え、」 思わず、目を見開いてしまっていた。 「な……んで、だって、それとこれとは、」 「音楽を諦めないシーは、オレの隣にいてもう惨めに思うことも妬むこともないだろう?なにせこのオレと、ヴァイオリニストなんだからなぁ。」 まって、まさかこの人この為に。この為だけに、僕に手を差し伸べてくれたってこと? おさまっていたはずの感情の波が、ぶわりと身体を揺らした。 ああ、そうだった。この人はこういう人だった。 いつだって自分のしたいように、我儘で僕を引っ張りまわして……僕をすくい上げてくれる。 なんて、なんて、自分勝手で不器用な愛なんだろう。 泣き尽くしたはずなのに、僕の視界がまた滲んでいく。 「シー、お前の負けだ。」 勝利宣言と共に落とされたキスは、涙の味がした。

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