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第72話
「シー、こいつを預かっておけ。」
しばしの別れの覚悟を決めて、行ってらっしゃいと見送りの言葉を送れば、返ってきたのは言葉ではなくヴァイオリンケースだった。
年季の入った深い飴色のケースに入っているのは、オリヴァーのファーストヴァイオリン。
「あの、これ…」
「持ち帰るのも面倒だし、ここに置いていく。……ちゃんとメンテナンスしておけよ?」
今は使用していないとはいえ、非常に高価なオールドヴァイオリンであることはもうわかっているのだけれど。ニヤリと浮かべる意地の悪い笑みの理由も、僕にはちゃんとわかったから。
だから、ほら、とつきつけられたヴァイオリンを僕は迷うことなく受け取った。
「ちゃんと大事に預かっておきます。」
「ああ。頼んだぞ。」
最後に名残惜しそうに僕の頭をひと撫ぜして額にキスを落としてから、今度こそ本当にオリヴァーはアマンダさんを連れホテルを後にした。
…………口元をへの字にまげ、眉間にはふかーい皺を刻み、静かに怒る色さんを残して。
「で、彗さん。ちゃんと説明してくれるんだよなぁ?」
「あ、ああの、ええと……」
「何があったのか、一から全部聞かせてもらおうか?あぁ?」
「ひっ、」
ぽん、と僕の肩に置かれた手には明らかに逃がさないぞと力が込められ、僕に向けられる色さんの目は完全に据わっていた。
圧が、圧が凄い。
結局僕は色さんを寮まで送り届けることとなり、その道すがら助手席からの矢のように厳しい視線を受けながら延々と質問攻めにあい、洗いざらい白状させられたのだった。
SNSにおいて「バイオリン」「貴公子」「アニメ好き」「ナポリタン」ついでに「美人すぎるマネージャー」の単語までトレンド入りさせ日本を大いに賑わせ掻き回してくれた男が去ってから約一週間。
僕はいつもよりちょっとだけ早起きをして近所の公園を訪れていた。
大きな仕事も終わり、溜まっていた有給を消化しなければと取得した金曜日の朝。……いや、消化というのは建前で、本当のことを言えば次の休みが待ちきれなかっただけなのだけれど。
預かったヴァイオリン、早くちゃんと音を出してあげたくて。一週間ずっとそわそわしていたのは恥ずかしくて誰にも言えない僕だけの秘密だ。
都内に家なんて借りられない安月給のサラリーマンが住んでるオンボロアパートでは、消音器をつけたところでまともに音を出してあげることなんてできるはずもなく。僕は朝からこうして預かり物のヴァイオリン片手に外へと繰り出したわけだ。
僕の自宅の最寄り駅横にある小さな公園。都心から離れた隣県であるこの場所は、都会の喧騒から離れた……まぁ要するに程よい田舎だ。
朝の静けさが漂う公園には、隣りにわりと大きな駅があるというのにまだ人影はない。緑が深く茂る木々の間を通り抜ける風が、涼やかに肌を撫でていく。
僕は公園の奥の小さなベンチに座り、隣にそっとヴァイオリンケースを置いた。
年季の入った深い飴色のヴァイオリンケースは、僕の恋人がわざと置いていった大切なもの。
メンテナンスをしておくよう仰せつかったけれど、それはつまり楽器を錆びつかせることがないようヴァイオリンを弾きつづけておけということ。そしていつか必ず取りに来るという彼の無言の約束だ。
あの人らしい、強引で不器用な優しさ。
ふふ、と思わずにやけてしまって、慌てて誰もいなかったはずの周囲を見回してしまった。
誰に見られているわけでもないのに、湧いてきた恥ずかしさを打ち消すように両頬をぱんっ、と自らの手で軽く叩いて、ズレた眼鏡を元に戻す。
「……こんなんじゃ、次に会った時に笑われちゃうな。」
気持ちを切り替えるべく小さく息を吐いてから、ゆっくりとケースを開いてヴァイオリンを取り出した。
弾きたい曲は山ほどあるのだけれど、一曲目はこの曲にしようと決めていた。
ベンチから立ち上がり、ヴァイオリンを肩に乗せる。ゆっくりと弓を引けば、ホ長調の優しい音が緩やかに空気を震わせた。
あの日、夜の駅前であの人が弾いた強引な愛。エドワード・エルガーの「愛の挨拶」。
あの人みたいに力強い音は僕には出せないけれど、僕は僕の解釈で、僕の音を。
弓を引けば、耳元で音が聞こえる。こんな当たり前のことに胸が熱くなって、押さえ込んでいたものが溢れ出てくる。そんな気持ちもちゃんと音に乗せられているだろうか。
僕なりの愛というものを、次に会う時には言葉の代わりに音であの人にも伝えられたら。
技術も経験もまだまだだけれど、キャンドルみたいだと言ってもらえた僕の音は、今日ここからまたゆっくり始めていくんだ。
そっと優しく弓を引けば、最後の一音は囁くように空気に溶けて消えていった。
音が完全に消えされば、再び訪れる静寂。
人気のない公園の片隅、聴衆のいない音には当然ながらなんの反応も返ってこない。だけど、僕の胸はヴァイオリンを弾けた嬉しさで満たされていた。
ベンチに座り、ヴァイオリンと弓を胸に抱き、思わず感嘆のため息。
ああ、まだまだ弾きたい曲が沢山ある。なんたって今日から三連休、弾き放題だ。
次はなんの曲にしようかと一度ヴァイオリンをケースに戻し、愛用しているビジネスバッグに大量に詰め込んできた楽譜を取り出そうと手を伸ばしたその瞬間、同じくバッグに入れていたスマートフォンが音を立てた。
社用じゃなくて、個人の。
もしやと画面を確認すれば予想通りの名前が表示されていて、あわてて通話のアイコンをタップした。
「は、はい、小比類巻です。」
『よぉ、シー。元気にしていたか?』
聞き慣れた声が聞こえてきて、思わずわずかに口角が上がってしまった。
「元気ですよ。……って、数時間前に話したばかりじゃないですか。」
『ん?そうだったか?』
あっはっは、と電話口で快活な笑い声が聞こえる。
実はこれ、毎日のように繰り返されているやり取りだ。
尊大我儘傍若無人。ヴァイオリン界の貴公子様はどうやら予想に反して意外とマメな人だったらしい。
彼が日本を発ってから数日、彼は欠かさず毎夜電話をかけてきた。いつも何を食べただの何のアニメを見ただの他愛のない話ばかりだったけれど、最後は必ずILoveYouで締めくくられる照れくさい電話は、今の所僕に不安に思う時間を与えないでいてくれている。
「でも、こんな早い時間に珍しいですね。」
『今日はシーがオフだと聞いていたからな。それに、こっちはたった今中国のホテルに着いたところだ。』
「ああ、そっか。コンサート、明日からですもんね。」
日本に続いて、次は中国公演。中国では二日間公演ができると嬉しそうに話していたのは昨日の夜の事だ。
なるほど、だから今僕に電話してきたのか。
日本公演の時と同じように、きっと彼は今嬉しさと同時に緊張も抱えているのだろう。それを口に出すことはしないんだろうけれど。
「……ナル、その、中国公演楽しんできてくださいね。」
まだまだ呼び慣れない愛称。少しでも緊張がほぐれますようにと暗に願いを込めて伝えれば、電話口からふ、と優しい吐息とThank youの言葉。
『シーも楽しんでるか?ヴァイオリン弾いてたんだろ?』
「……はい。」
見えていないとわかっているのにこくりと頷けば、オリヴァーはそうか、と嬉しそうに笑った。
僕を口説くために僕に再びヴァイオリンを弾かせたと彼はあの時言ったけれど、恋人と呼べる関係になった今でも彼はヴァイオリニストとして僕を扱い、気にかけてくれている。
やっぱり優しい人なのだ、この人は。
「あの、今度会う時はまた僕と二重奏…」
『じゃあ弾いてるってことは、暇してるんだな?』
「…………はい?」
恋人との会話に照れて二度くらい上昇していた空気が、ぴしりと一気に凍りついた。
いやいやいや、覚えがある。
覚えがありすぎるこの展開。
……うん、嫌な予感しかしない。
『オレは今ホテルに着いたところだからな。』
知ってますよ、さっき聞きましたよ。
ああ、ご機嫌すぎる声が逆に怖い。
『打ち合わせはもう終わったし今日はもうオフだから一日付き合ってやれるぞ。』
「いや、あの、ちょっとナ…」
『というわけでホテルまで来い。』
こちらの言葉なんて聞く気ゼロ。聞いてもないのにホテルの名前とご丁寧に号室まで告げてから通話は一方的に切られてしまった。
「……うそ、」
嘘でも冗談でもないことはもう嫌というほどわかってはいるのだけれど、けれども!
そんな、隣町に来たみたいな気安さで!
いやいや、それよりもパスポート、どこにしまい込んでたっけ!?え、行かなきゃ行けないの?本当に??
沈黙したスマホを握りしめたまま現実を受け入れられずにいたら、僕のビジネスバッグの中から社用の携帯が着信を知らせる音を立てた。
恐る恐るバッグから取りだし確認すれば、絶妙すぎるタイミングでメールをよこしてきたのはアマンダさんだった。
……飛行機の電子チケット。さすが、仕事が早すぎる。
ビジネスメールとしての挨拶なんて全くなく、飛行機の時間と空港からホテルまでの地図を添付されていたメールの最後には、
――わかってるとは思うけど、スーツ持ってきなさいよね。
完全に詰んだ。
断る選択肢がどこにも無い。
僕は、手にしていた社用と私用の二つのスマホを脱力で落としてしまう前になんとかバッグにしまい込んでから、開きっぱなしになっていたヴァイオリンケースの蓋をしめた。
弾きたかったんだ。そのためにもぎ取った貴重なお休みが……
ふつふつと胸に湧いてきた感情が急激に温度を上げていくのがわかる。
待ってるって、言ったのに。
これ結局、ついて行くのと変わらないのでは!?
手にしたヴァイオリンケースをぎゅっと胸に抱き込み、僕は胸の内でついには沸騰した感情を思いっきりぶちまける。
「っ、もうーーーーーーーーっ!!!」
人気のな静かな公園に、僕の絶叫がこだました。
それでも僕は数時間後、指定通りスーツ持参で隣国の地を踏んでいた。
だってもう悟ってしまったから。
恋、とはきっと諦めのことなのだ。
𝑭𝒊𝒏.
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以上でおしまいです。
その後の話?を短編に書こうと思っているので完全な最後というわけではないのですが、長い間お付き合いいただきありがとうございました。
シリーズ合わせて長い方で三年半くらい、かな。
見捨てずいて下さったおかげで最後まで書ききれました。
本当に、本当にありがとうございます!
追記
※同作者の作品一覧より短編アーカイブにその後の話?「オリーとシーのドタバタ珍道中☆」あげてます。
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