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第71話 ご機嫌な海と平凡になれなかった彗星
フロントに声をかけて、専用エレベーターで特別フロアへ。
エレベーターの中、静寂がやけに重く感じられた。
心臓の音が耳元で響いている。階数がひとつ、またひとつと上がるたびに、胸の中で渦巻く思いが大きくなっていく。
もうすぐオリヴァーが日本を発つ時間だ。その前に、ちゃんと話をしないと。
肺に限界まで空気を入れてゆっくり吐き出して。そうして少しだけでも心を落ち着けようと足掻いていたら、あっという間に目的階へ。
ドアが開いて、柔らかなカーペットが足に触れた瞬間、ふと遠くからオリヴァーの声が聞こえて思わずビクリと肩を揺らした。
誰かと話してる?
声をたどって、ラウンジの入口に近づくと、そこには見慣れすぎた後ろ姿があって、思わず目を見開いた。
「え。色 さん……?」
なぜここに。今日は平日で、今の時間ならまだ午後の授業中のはずなのに。
『なんだ、授業をサボって見送りなんて、オレがいなくなるのがそんなに寂しいのか?んんー?』
『お前の為にサボったんじゃねぇし、ついでだって言ってんだろうが。……親父と少し話ししてて、まぁ、今度はもっとちゃんとステージに…』
『素直に寂しいと言えばいいのに。ジャパンコンサート、またすぐ開いてやるからな!』
『だから、違うってんだろうが!』
ラウンジでじゃれつきながら会話を弾ませている色さんとオリヴァー。そんな二人を少し離れてアマンダさんがため息混じりに眺めている。
その足元には、オリヴァーと彼女のものであろうスーツケース。
どうしよう。
二人の間に割って入っていいものか悩んで、足が止まる。
だけど、残された時間は少ない。
一歩をなかなか踏み出せずにいたら、色さんの肩を抱きながら雑に髪を掻き乱していたオリヴァーの顔がふいに上げられた。
そのオーシャンブルーが僕を目にした瞬間、大きく見開く。
「シー!」
オリヴァーの声が、まるで突風のように勢いよく僕に向かって飛んできた。
オリヴァーは色さんの肩から手を離し、僕に向かって一直線に駆け寄ってくる。その勢いに圧倒されて、僕の心臓はさらに速く鼓動を刻んだ。
「え、彗さん?なんで?」
オリヴァーの背後から色さんの声が聞こえた気がしたけれど、ドクドクと跳ねる自らの心音でそれどころではなかった。
迫り来るオリヴァーに僕は反射的に一歩後ずさりそうになったけど、その手が逃がすまいと僕の両腕をがっちりと掴んだ。
じ、とオーシャンブルーが僕を見下ろす。
ちゃんと、話をしなきゃ。
僕はそのためにここに来たんだから。
僕も、オーシャンブルーを真っ直ぐに見上げた。
オリヴァーの喉がこくりと動いてから、ゆっくりとその口元が開かれる。
「シー、答えを聞こう。」
僕は小さく頷いた。
僕の両腕を掴む彼の手はかすかに震えている。尊大で自信家な彼の不安が伝わってきて、思わず抱きしめてしまいたい衝動に駆られたのだけれど、ぐっと拳を握って耐えた。
だって僕は、オリヴァーに言わなきゃいけないんだから。
小さく息を吸い込んだ。
「オリヴァー、僕はあなたとは行けません。」
決めていた言葉を、息とともに吐き出した。
「僕にはここで支えたい人がいるから。……だから、あなたとは行けません。」
僕を見つめるオーシャンブルーが、揺らいだのがわかって、胸の奥がつきりと痛む。
だけど、これは譲れないんだ。
sikiの音は、僕にとって何にも変えられない大切なもの。だから、僕はその音を支えていきたい。それが僕の目指す音楽なんだ。
二人で、sikiとして。なにより色さんがそれを望んでくれたんだから。
僕は、僕の音楽を貫いていきたい。
「…………そうか。」
帰ってきのは、穏やかな声だった。
泣きそうに笑うその顔に、驚きの色は全くなくて。たぶんきっと、この人は僕の答えをわかっていたんだと思う。
だってこの人は、僕の事を自分と同じ「音楽家」だと言ってくれた人なのだから。
そう、だからこそ僕は――
「それがシーの答えなら、オレは…」
「っ、だから、」
離れていこうとした手を、僕はとっさに掴んでいた。
驚きに肩を揺らし、見開かれるオーシャンブルーを逸らすことなく見つめる。
言わなきゃ、ちゃんと。
「だ、から……あなたが僕に会いに来てください。」
「……は?」
キッパリ言い切れば、オリヴァーは困惑に固まった。
その背後からどうなってんの?と色さんの戸惑いの声も聞こえてきていた気がするが、今はとにかく言いたいことを言ってやるって決めたんだ。
「あ、あなたオリヴァー・グリーンフィールドでしょ!世界中飛び回ってるのはあなたの方なんですから、あなたが時間を作って僕に会いにくるべきです。」
「へ?……あ、ああ、」
この人はヴァイオリニストだ。この人にはこの人の追い求める音楽がある。
だけど、だからといってこの人と離れたくない。
音楽と、この人と。
僕はどちらも諦めたくない。
そもそも諦めるってなんだ。なぜ諦めないといけないんだ。だって僕には共に音楽を作っていきたいと言ってくれた色さんがいて、僕を欲しいと望んでくれたオリヴァーがいるんだから。
そして僕は知っている。オリヴァー・グリーンフィールドという人が、一度惚れ込んだものにはどれほど純粋に熱烈に愛をかけるのか。
だから、大丈夫。
「僕は、この場所であなたが帰ってくるのを……待っててあげます、から。」
共にいなくとも、この人は僕を想ってくれる。だったら僕も、同じ想いを返せばいい。
真っ直ぐ見上げた先で、オーシャンブルーはこれ以上ないくらいまん丸に見開かれた。
困惑に口元をわななかせ、限界まで見開いた瞳を瞬かせたかと思うと、次の瞬間、彼の口から大きな笑い声が溢れ出す。
「くく、っははははは!」
腹を抱えて身をよじるオリヴァーの大爆笑がラウンジに響き渡った。
オーシャンブルーに涙すら滲ませ笑い続けるオリヴァーに、皆どうしたものかと遠巻きにしている。
どちらも欲しいなんて我儘な答えは、彼を怒らせ拒絶されるかもしれないと思っていたのに。オリヴァーは肩を揺らしながら息も絶え絶えに全力で笑い続けていた。
「オリヴァー……?」
僕が声をかけたその瞬間、オリヴァーが突然、僕に向かって一気に距離を詰める。驚く間もなく、彼の腕が僕の体をがっちりと包み込んだ。
ふわりと、シトラスの香りが鼻をくすぐる。
「っははっ、最っ高だシー!それでこそシーだ!」
はぁ!?という色さんの動揺の声と、アマンダさんのもしかして全くご存知なかったんですか?という言葉が聞こえてはいたのだけれど、今はこの温もりを感じていたくて。彼の腕の中で、僕も自然に腕を回してその背中をそっと抱き返す。
「約束だ。すぐにまた帰ってくる。」
「はい。……待ってます。」
埋めていた彼の胸からわずかに離れてそっと顔を上げれば、優しい色を宿したオーシャンブルーが僕を映していた。
「シー、…」
オリヴァーが僕の耳元に顔を寄せる。
call meと囁く声は、蕩けるくらい甘かった。
「……ナル…」
目の前の人にだけ聞こえる小さな声で名を呼べば、次の瞬間僕はオリヴァーに強く引き寄せられ、唇が重なっていた。
カチリとぶつかった眼鏡も無視してオリヴァーの手が僕の背中をしっかりと支え、僕たちの間にあったわずかな距離を完全に消し去る。
「んっ……んふ、」
ただ触れるだけのキスは、あっという間に深さを増して。オリヴァーの舌先が唇を割り開いて中へと侵入したと思ったら、僕の舌を絡めとってさらに口内を蹂躙していく。
『はぁ!?な、な、な、』
『……うちの馬鹿がすみません。』
色さんとアマンダさんの声が遠くに聞こえたけれど、それどころではなかった。
「ふ……っん、んぅ」
漏れ出す声までも奪い取るように深く深く口づけられて。その激しさに思わず腰が砕けそうになったところでようやく唇が離された。
力の入らない身体を、オリヴァーはぎゅっと抱き寄せる。
「愛してるぞ、シー。」
「ぼ、僕も……愛してます。」
初めて口にしたILoveYouは、甘い痛みと共に僕の胸を締めつけた。
そうして嬉しそうに細められたオーシャンブルーは、熱に浮かされた僕を抱きしめたまま突然くるりと背後を振り返る。
「おいシキ!」
先程まで蚊帳の外だったはずなのに突然名前を呼ばれ、色さんはビクリと身をすくませた。
「な、なんだよ……」
その声は混乱と衝撃からか泣きそうだった。
オリヴァーはふふん、と勝ち誇ったように意味ありげな笑みを色さんに向ける。
「早く世界に出てこい。……シーを連れてな。」
「な、ななな、な」
状況が整理できないのかおろおろするばかりの色さんだったが、今の言葉は理解出来たらしい。
怒りに唇を震わせた色さんは、その人差し指をびしっとオリヴァーに突きつける。
「ふざっけんな!だ、だれがお前なんかの為に!彗さんは俺のマネージャーだぞ!!」
「だがオレの恋人だ。悪い虫がつかないようちゃんと見張っていろよ?」
オリヴァーの指がす、と僕の顎を撫ぜる。
あ、これまずいやつだ。
熱に浮かされていた思考が少しずつクリアになってきたけれど、時すでに遅し。
色さんに見せつけるように僕の腰を抱き寄せたオリヴァーはちゅ、と音を立てて僕の頬にキスを落とす。
「もちろんシキ、お前にだって譲る気はないからな。マネージャーとしてのシーは譲ってやるが、触れていいのはオレだけだ。」
ニヤリと黒い笑みを浮かべるオリヴァーとは対象的に、色さんの顔からは血の気が引いていく。
「……な、…なんで、……」
ついには限界を迎えたのであろう色さんの身体は、まるで魂が抜け落ちたかのようにその場に崩れ落ちていった。
「っ、色さ…」
「っあははは!」
僕を抱き寄せたまま、オリヴァーは高らかに笑う。
はぁ、とこめかみを押さえながら吐き出されたアマンダさんのため息が、なぜだか僕の耳には妙にはっきりと聞こえていた。
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次で最終話……かな?
もう少しお付き合いください。
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