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閑話 強欲な熱情
『ナル坊、ちょっとコンサートに付き合え。』
あの日じいさんに連れていかれたコンサートで出会った衝撃を、オレは一生忘れない。
じいさんの古い友人だとかいうヴァイオリニストのクラシックコンサート。知っているはずの楽器から聞こえてきたのは、初めて聞く音だった。
心臓を握りつぶされたような衝撃に身体は呼吸を忘れる。
鼓膜どころか全身を直接ゆさぶってくる力強い音。
これがヴァイオリンだと?
なんだこれ、こんな音が出せるのか。
いや、オレならもっと……
『じいさん、……あの音は、どうすれば手に入れられる?』
『はっはっ、ナル坊は強欲だなぁ。あれを手に取れる人間なんざ、この世のほんの一握りだぞ。』
『だったらその一握りになってやる。』
あの音が欲しい。
あれをオレの手で奏でたい。
その為ならなんだってやってやる。
はっはっはと呑気に笑うじいさんの隣で、コンサートの間中オレは遠いステージの先を睨みつけていた。
「……引き抜きって、いくらなんでも無茶苦茶じゃない。」
アマンダの部屋に運んでもらったモーニングを二人で食べながら夜のうちに起こったことを白状すれば、思った通りアマンダは呆れたと吐き捨てこめかみをおさえた。
朝食をとりつつのミーティング。オレはふらふらと遊びすぎだ、ことを大きくする前に必ず報告を入れろと本気で叱責されて以来、こうして朝食の席は必ずアマンダと顔を突合せ、前日の報告をすることが恒例になっている。
アマンダは優秀な女だ。こいつに隠し事をするメリットなど一つもないし、そもそも、今日は絶対あんたの部屋じゃなくてこっちで食べるわよと朝顔を合わせるなり言われたので、何も言わずとも全てバレてしまっているのだろうが。
「サポート欲しがってただろうが。シーでは不服か?」
「別に。あの人仕事はできるみたいだし、私としては問題ないわよ。……あの人が本当にそれを受け入れるなら、ね。」
ピクリと、フォークを持つ手が思わず震えた。
思わずぎ、と睨みつけてやったが、アマンダは淡々と食事を続けている。
「……シーは来る。」
力無く呟けば、だといいわねと無感情に返された。
わかっている、これは根拠も何もない単なるオレの願望だ。
そう願いたいくらいにシーという人間をオレの全てが渇望しているんだ。
音楽が好きだと、あの日シーが流した涙は衝撃だった。
寝食も忘れてヴァイオリンにうちこんで、それでも結果がでなければ、出るまでやり続けて。そうしてオレはオレの音楽を手に入れた。それが、オレのグァルネリに、音楽に対する最上の愛だと思っていた。
だから、今まで考えもしなかったんだ。
どれだけ努力をしようとも報われることなく、それどころか疎まれ拒絶される状況が起こりうるなんて。どんな結果であれ、努力すればそれは何らかの形で必ず返ってくるものだと信じて疑わなかったんだ。
努力をするたび否定され、拒絶され、何も実を結ばない。それでもなお音楽を愛し続けられるのか。想像しただけでもゾッとした。
けれど、シーはそれでも音楽が好きだと涙した。
自らの音楽が否定されるのなら、自分の理想とする音を奏でる他人を支え、音を作る。そこまでの熱情を、オレははたして持てるだろうか。
その熱情を、それを抱けるスイという人間の全てを自分の物にしたい。
「……絶対に手に入れてやる。」
思わず口にしてしまった言葉に、テーブル越しに小さなため息が聞こえた。
食事の手を止めたアマンダは、アンダーリムの眼鏡越しに真っ直ぐオレを見つめる。
「もし彼がついてくることを選んだとすれば、貴方は彼に大事なものを捨てさせたってこと。拒否したとすれば、彼には貴方より大事なものがあるってこと。……どういう結果になるにしろ、彼に対してあなたの愛は重すぎるのよ。」
アマンダの静かな声に、オレはぴくりとフォークを動かす手を完全に止めてしまっていた。
「貴方だって無茶言ってるって本当はわかってるんじゃない?」
「……、」
なにか言い返してやらねばと思うのに、言葉は出てこない。
なぜだ。なぜ欲しいと望んではいけない。手にするための努力は惜しまないのに、望むことはそんなにも強欲な事なのか。
「……それでも、シーが欲しいんだ。」
テーブル越しにまたため息が聞こえる。
「重さで潰してダメにする前に関係を解消することをオススメするわ。」
アマンダはもう話すことは無いとばかりにそれ以上何も言わず食事を再開させた。
しかたなくオレもふたたびフォークとナイフを動かす。
ようやく手が届いたのに、手放すなんてありえない。シーは絶対連れて帰る。
そのための手は尽くした。あとはもう、悔しいが祈るしかない。
シーはオレのところに来る。
もし拒絶されたら。疎まれ否定されたら……オレそれでもこの熱情を抱き続けられるのか。
そんな結果にはならないと、ならないはずだと、今は信じて待つしかない。
美味いんだろうモーニングの味は、全くしなかった。
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