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第70話

どうやって家に帰ったっけ。 気がつけば僕は寝室の床にへたりこんでいた。 スーツ、ソファに掛け置いたままだ。色さんとのお仕事用の高いやつなのに、皺になってしまう。……わかっていても身体が動かなかった。 身体の痛みも疲労もピーク、けれど眠気は全くこない。今は眠る時間すら惜しいのだと僕の全身が理解していた。 いったい、どうしたらいいんだろう。 ふと、ぼんやりとした視線の先にあったクローゼットの奥からスーツケースを引っ張り出してみる。 行くのか、彼と。 だとすればこの空っぽのスーツケースに荷物を詰めなければ。 でも、でも、 思考はそこで止まってしまって、それ以上動こうとはしなかった。考えなきゃいけないのに、考えたくない。 スーツケースを開くだけ開いて手は止まり、僕は目の前の現実から逃げるように手近な本棚に手を伸ばして、触れた雑誌を適当に手に取った。 何度も読み返してボロボロになっている音楽雑誌。発売されたのはいつの事だっただろう。やぶれかけの付箋のついていたページを開けば、見覚えのあるアニメのイラストに記憶に微かに残っている見出し。 『音楽の概念を覆す、真の芸術がここに』太字でそう書かれた記事は、ああ、そうだ覚えている。アニメ映画で注目を浴びた(しき)さんが初めて受けた雑誌の取材。あの時は直接会うことは出来ないのでとメールで送ってもらった質問内容に、僕と色さんの二人でなんと答えたものかと頭を悩ませたっけ。 色さんは取材の対応がいまだに苦手で、見かねた時には僕が代筆をする時もあるくらいだ。どうしたら色さんという人を、この人の描きたい世界を伝えられるのか。拙いながらに考えて、もういくつこうして取材をこなしてきただろう。 隣りの雑誌も棚から取り出して開いてみる。 ああ、こっちは初めてCM曲を担当した時のだ。その隣は……初めてアルバムを出した時。その隣は、音楽賞を受賞した時のもの。 本棚にはそんな雑誌達がぎっちり押し込まれていて、そういえばそろそろ棚を増やさなければと思っていたところだった。 「色さん……」 雑誌に顔を埋めて、深く息を吐き出す。 どちらかを選べだなんて、僕には…… 手にしていた雑誌を床に置いて、本棚の端から一番最近の雑誌を抜き取る。 付箋の貼られているページじゃなくて、表紙から数ページ捲れば、見開きで目に飛び込んできたプラチナブロンドとオーシャンブルー。『ついに日本公演決定!』の見出しの下にはヴァイオリンを抱え真っ直ぐにカメラを見つめるオリヴァーの写真が掲載されていた。 色さんの記事が載っているからと購入したその当時は気づかなかったけれど、今ならわかる。口元にうっすらと笑みを浮かべているくせに眉間には僅かにシワが寄っていて、嫌々ながらに撮影されたものなんだろう。 アマンダさんに怒られながら。ふん、と不機嫌に鼻を鳴らしながら。そんな姿が目に浮かぶ。 はぁ。 吐き出したため息は、深夜の静まり返った部屋に溶けていった。 雑誌を閉じて、そのまま背中から床に寝転べば、冷たいフローリングが身体に心地いい。 色さんの創り出す音楽が好きなんだ。この人のそばで、この人を支えたい。多くの人にこの人の音楽を知って欲しい。そう思ってここまできたんだ。 でも、知ってしまった。たった一人を求めてしまう自分の中にあった欲望という名の熱情を。 どちらも大事。 どちらかを選べなんて、 どちらかを諦めるなんて、僕には…… 「…………あ、」 自分の言葉にはっとして、勢いよくその場に身を起こした。 ふと、脳裏をよぎった音。 数時間前に聴いた、強引な愛を奏でるヴァイオリン。 身体の内側で鳴り響く音が、僕の思考をクリアにしていく。 「そっか。」 僕は、何を悩んでいたのだろう。 僕はあの時、あの音を、答えを聴いたじゃないか。 手にしていたままだった雑誌を閉じる。 読んでは床に散らかしていた雑誌も全て本棚に戻して、開きっぱなしだったスーツケースも閉めた。 全部綺麗に片付けて、パシンっ、と自らの両頬を叩く。 大丈夫。きっと、この答えで大丈夫。 ちゃんと伝えなきゃ、僕の気持ちを。 グルグル渦巻いていたはずのものが、胸の内にストンと落ち着いたのがわかった。 凪いでいく心とは対照的にじわじわと思い出される身体の痛みと疲労感。 そういえば僕、大変なことをしちゃったんだっけ。 今更ながらに思い出した事実に思わずふふ、と笑ってしまったのは、たぶんきっと、数時間後にもっと大変なことを伝えに行こうとしているからなのかもしれなかった。

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