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第69話
…………これ、もしかしなくとも僕はとんでもないことをしてしまったのでは。
熱が引いて冷静になってきた僕の思考を占拠したのはこの一言だった。
デラックススイートなんて一生かけても利用できないような高級な部屋の、大きくてふかふかのベッドの上。
僕の身体のいたるところに付けられた執着の痕と腰に残る激痛。
そして痛みと疲弊から身動きの取れない僕を生まれたままの姿で背後から抱きしめるのは、ヴァイオリンの貴公子ことオリヴァー・グリーンフィールド。
…………うん、とんでもないことになってしまった。
冷静になればなるほど数時間前の自分へ突っ込みたいことだらけだ。
もう少し冷静になれなかったのか。
いい年した大人が我を忘れてせっ、……なんて。相手が誰だか本当にわかってるのか。
今更ながらに事の重大さを実感して、背中がざわざわと落ち着かない。
けれど、オリヴァーはおかまいなしに身じろいだ僕の身体を背後からきつく抱きしめ直してきた。
耳元で幸せそうな笑い声が聞こえてきて、振りほどこうにも振りほどけない。
「あの、僕そろそろ帰らないと。」
「嫌だ。今日は朝までここにいろ。」
「いや、でも、オリヴァー…」
「ナル、だ。そう呼べと言っただろう?」
甘く耳元で囁かれて、自分でも怖くなるくらい心音が速度を増していく。
先程までもっと凄いことをしていたはずなのに、羞恥と緊張でどうしても背後を振り返れなかった。
「あの、それはその、恐れ多いというか、なんというか、」
「はぁ?恋人の名を呼ぶのに何を躊躇うことがある?」
「う、」
不機嫌にさせてしまった事よりも、彼の口から恋人という単語が出てきたことに動揺してしまった。
やっぱり、そう……ですよね。
同意の上で行為をして、こうしているわけで。
ああ、僕本当にこの人と関係を持ってしまったんだ。どうしよう、これ夢でも妄想でもない現実だ。
「……もしかして、後悔してるのか?」
深い夜の中、しん、とした部屋にポツリと落とされた声は自信家な彼からは想像できないくらい苦しそうで。思わず振り返ればそこには不安と恐怖に歪められたオーシャンブルー。
僕はとっさにその頬に手を伸ばしていた。
「違います、後悔なんてしてませんよ。……一夜きりだって言ったあの時とは違いますから。」
するりと頬を撫ぜ、あやす様に告げた言葉は紛れもない僕の本心だった。
我ながら大それたことをしたと思う。思っているはずなのだけれど、もし数時間前に戻ってやりなおせたとしても僕は何度だって同じ選択をするだろう。
それくらい、この人はもう僕の心の一番深い部分にどっかりと居座ってしまっているのだから。
大丈夫ですよと笑って告げれば、オリヴァーは安堵したのか小さく息を吐き、それから思い出したように、む、と口をへの字に曲げた。
「じゃあなぜナルと愛称で呼ばない?そもそもシーはいつもオレに対して手本のようなビジネス英語を使うのも気に入らん。」
「いえ、それは、その……もう少し時間をください。オリヴァー・グリーンフィールドのこ、恋人なんて……僕には、」
気持ちに嘘はない。誤魔化そうとしたって無駄だって思い知らされた。
けれど、この人とその、お付き合いをするというのはあまりに荷が重すぎる。なにせこの人はオリヴァー・グリーンフィールドなのだから。
「……次に会う時までには、その、少しはあなたに相応しい自分になっているように頑張りますから。」
だからもう少しだけ待ってください。
そう懇願するように告げた僕の言葉は、オリヴァーの唇に吸い込まれた。
驚きに瞳が瞬いた時にはすでに唇は離れていて、彼はまた僕を力いっぱい抱きしめる。
「くそ、そんなこと言われたら離したくなくなるだろ。……朝まで離さないからな。」
駄々っ子みたいに呟く声に思わず笑ってしまいそうになる。
僕は彼の背に手を回し、よしよしとその背を撫ぜてやった。
「ダメですよ。……もう帰ります。」
離れ難いのは僕だって同じだ。だけど、彼は次も、その次も、さらにその次の公演だって決まっていて、彼の音を求めている人が世界には大勢いるのだから。
……そういう凄い人なのだ、この人は。
あと数時間後には彼の帰国を惜しんで、ファンやマスコミがホテル前に殺到することだって考えられる。そうなる前にボクはここから離れるべきだろう。この先も、この人と会いたいと思うならなおさら。
名残惜しさを堪えて彼の腕から抜け出し、鈍痛に悲鳴をあげる身体をなんとか起こす。
服と眼鏡、そう言えばどこだっけと数時間前の記憶を思い起こしつつベッドから降りようとしたのだけれど、
「シー、」
離れようとする僕の手首を、背後からガッチリと掴まれた。
「ちょ、オリ…」
「やはり離したくない。」
いい加減離してください、なんて小言は口にする前に消えてしまった。
振り返った僕を見つめていたのは、先程まで子供みたいに我儘を言っていた時とは違い酷く真面目な色を宿したオーシャンブルー。
突然流れた深刻な空気に気圧されて、思わず息を飲んだ。
「あの……オリヴァー?」
手を振り払うこともできず、ただ彼の言葉を待つしかできない。
オリヴァーは小さく口を開いては引き結び、それを数度繰り返したかと思えば意を決したように口を開いた。
「シー、オレと来い。」
短い言葉が、僕の思考を完全に停止させる。
なに、彼は、何を言って、
「え、……え、」
「アマンダが最近一人では仕事が回らなくなってきたとよくボヤいている。シーが有能なのはわかっているしアマンダも文句は言わないだろう。」
「え、あの、……」
理解できなかったはずの言葉の意味が、ゆっくりと胸の中に落ちてくる。
つまり、これは、この人は、
握られたままだった手に、ギュッと力が込められる。
「シー、オレと来い。」
突然すぎて真っ白になっていた頭の中が、ぶわっと色づいた。
この人についていく。
常にこの人の隣にいて、この人を支えていく。
その権利を、僕にくれると、この人は言ったんだ。
一瞬脳裏に浮かんだ光景に心臓はトクンと弾む。
「ぁ、……」
けれどすぐに、自らが抱いてしまった考えに血の気が引いた。
だって、彼についていくということは、
それはつまり、
「……色さん、」
思い浮かんだ人の名を思わず口にした瞬間、オリヴァーの顔が苦痛に歪む。
「……シーは、あいつのマネージャーというわけではないんだろう?」
縋るような視線をまっすぐ受けられなくて、僕は逃げるようにその場に俯いた。
そうだ、僕は色さんの正式なマネージャーではない。……今は。
――俺についてきてほしい
色さんがかけてくれた言葉が、僕の心臓を震わせる。
「あの、……」
どうしたら。
言葉が、出てこない。
だって、答えなんて出せるわけないじゃないか。
「……明日の14時にはここを出る。」
掴まれていた手が不意に離れていく。
恐る恐る顔を上げれば、オリヴァーは眉根を寄せて辛そうな顔をしながらも笑ってみせた。
「来るだろう?……待ってるからな。」
今にも泣くんじゃないかって思った。手を伸ばして抱きしめてあげたい衝動に駆られたけれど、ぐっと拳を握って耐える。
いつもならもっと強引に僕を引きずり回すような人だ。そんな人が、僕の為に時間をくれた。
「……帰ります。帰って、考えます。」
オリヴァーの我儘に振り回されるんじゃない。その場の勢いに流されるんじゃない。
一人で考えて、僕はこの人に答えを出さなきゃいけない。
僕はオリヴァーに背を向けてベッドを離れ、月明かりを頼りに床に散らばっていた服をかき集める。
シャツの下から見つけた自分のスマホを拾い上げ時間を確認すれば、そろそろ日付が変わろうとしているところだった。
残された時間はあまりに短い。
だけど、それでも決めなくては。
「……明日、必ず答えを出しますから。」
シャツのボタンを留めながら、振り返ることなく告げた。
「ああ。……待っている。」
オリヴァーはそれ以上何も言わなかった。
目を閉じて、深く息を吸い込む。
僕は軋む身体に鞭打ってなんとか服を着替えてから、そのまま部屋を後にした。
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