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第1話 桜庭建築事務所
「総ちゃん、コーヒーいれたけどケーキ食べる? 駅前のアマンドのモンブラン」
「いや、俺はいい。コーヒーだけ」
まるで平和な家庭の姉弟の会話だが、ここはれっきとした建築事務所である。
桜庭総一郎32歳は、半年ほど前に独立してこの桜庭建築事務所を設立した。
とあるマンションの一階にある狭い事務所ではあるが、店舗設計を売りにしているだけあってなかなかお洒落な事務所だ。
桜庭の姉、安西祥子は、二人の息子が少し大きくなったので事務員として仕事を手伝っている。
とはいえ10代で結婚したため、事務経験もなくお茶くみと電話応対程度のことしかできないのではあるが。
それでも来客があった時などは、女性がお茶を出したほうが印象がよいという理由で、桜庭が安い給料で雇っているのである。
桜庭は苦虫をかみつぶしたような顔をして、デスクに向かっている。
メタルフレームの眼鏡の下の、鋭い切れ長の目は他人を寄せ付けない険しさがある。
特に機嫌が悪いという訳ではないが、この半年間桜庭の仕事は余裕がなく、もともと無愛想だった顔が近頃さらに険悪な形相になっているのだ。
なにしろ、何もかもひとりでやらなくてはならないので、忙しい。
のんきにケーキを食べている時間などないのだ。
桜庭は独立したくてした訳ではなかった。
石橋をたたき壊すほど慎重な桜庭が、ほとんど仕事のできない姉と二人で見切り発車のように会社を設立したのには理由がある。
一年ほど前、桜庭は勤めていたヨツバコーポレーションという大手の建設会社の専務の娘と婚約していた。
当時建設部門で一番の出世頭であった桜庭は、その娘と結婚して出世街道をまっしぐらだったはずなのだ。
しかし結婚式直前になって、破談になった。
それは桜庭の落ち度ではない。
専務の娘が別の男に走ってしまったのだ。
もともと桜庭は乗り気だった縁談でもないので、破談になったこと自体はさほど気にすることでもない。
しかしまずかったのは、専務の娘の浮気相手が、よりによってライバル会社のエリート建築士であったことである。
専務はその男をヨツバに引き抜くことで、二人の結婚を認めた。
そして何の罪もない桜庭は、その男と一緒に仕事をさせるわけにはいかないという理由だけで支店へ飛ばされることになったのだ。
役職はつくが、ていのよい左遷である。
プライドの高い桜庭はそれが許せなかった。
そして婚約破棄を表沙汰にしないという条件で専務と話し合い、破格の退職金を手に独立したのである。
周到な桜庭は、退職するまでに使えるコネは総動員して、仕事を確保していた。
本人に非のない退職であったため、温情でヨツバからの下請けの仕事も回ってくる。
現在まで仕事は切れずになんとかやってきているが、時間はいくらあっても足りない状態だ。
ノックもせずにひとりの男が事務所に入ってきた。
この事務所に黙って入ってくるような男は一人しかいない。
朝比奈陸、30歳、フリーの建築デザイナーである。
桜庭とはヨツバ時代からのつき合いで、時々建築パースなどを下請けしているのだ。
堅物の桜庭と違って、朝比奈はグラビアから抜け出たようなファッションのイケメンである。
けして派手ではないがセンスのよい中性的なブラウスに身をつつみ、柔らかい巻き毛が顔立ちをいっそう若く見せている。
「あら、陸ちゃん、いらっしゃい。ちょうどいいところに来たわ。アマンドのケーキがあるんだけど、総一郎はいらないって言うから」
「いいんですか? じゃあ、頂こうかな」
朝比奈は仏頂面の桜庭に声もかけずに、ソファーに座り込む。
用事は納品だけなので、不機嫌そうな桜庭に声をかけるまでもない。
祥子もいい話し相手が来たとばかり、朝比奈にケーキとコーヒーを出して、隣に座り込んだ。
「いつ見ても、陸ちゃんの絵はきれいねえ。事務所に飾っておきたいぐらい」
「こら!祥子、ケーキを触った手で触るな」
桜庭が眉間にしわを寄せて、飛んでくる。
下を向いて仕事をしていたはずなのに、頭にも目がついているんじゃないかと、こんな時朝比奈はいつも思う。
「いちいちうるさいわねえ。手はちゃんと洗ったわよ」
桜庭は祥子からできあがったばかりの絵を数枚取り上げると、立ったまま目を通した。
麻布に新しくできるカフェの外観である。
柔らかい水彩画のような、朝比奈の絵は幻想的で、単なるパースデザインとは違う。
図面を見せるだけでなく、この外観図を見せることで仕事が決まることも多く、その才能だけは桜庭も認めていた。
芸術的才能は皆無の桜庭の目から見ても、朝比奈の絵の才能は優れている。
だからこそフリーのデザイナーとして、この年でも仕事が取れるのだろう。
しばらく黙って絵をながめていた桜庭は、ふと何かを思い出したようにその絵を片手にデスクに戻り、どこかへ電話をかけた。
「納品完了、と」
朝比奈は小さく笑みを浮かべて、ケーキに手をのばす。
桜庭は口べたな男で、人をほめるということがめったにない。
黙っているということイコール、満足しているということだと朝比奈は受け取っていた。
少しでも気に入らないところがあれば、容赦なく指摘してくるはずである。
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