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第2話 食事に連れ出す
「ああ、先日の麻布の物件、見取り図と外観が出来上がりましたので……はい、すぐにでもお届けできますが」
どうやらさっそく、その件で連絡を入れているようだ。
電話の相手が桜庭が元勤めていたヨツバであるということも、朝比奈にはわかっている。
桜庭が電話を切って、立ち上がったところへ朝比奈は声をかけた。
「届けるだけなら、俺が行ってやろうか?」
「お前が?」
桜庭はちょっと思案するように、動きを止める。
「このあと用事はないのか?」
「もう今日は帰るだけ。俺なら代理でも構わないだろ?」
「そうか、なら悪いが図面と一緒に届けてくれると助かる。設計の伊地知に渡してやってくれ。電話はいれておく」
「了解。貸しイチね」
朝比奈がニヤっと笑うと、桜庭は眉をひそめる。この男は貸し借りが大嫌いなのだ。
「要求はなんだ」
「うーん、そうだな……ま、届けるだけだし昼飯1回おごりってことで」
「わかった。モントレでいいか」
「十分」
近所にあるモントレというイタリアンレストランのランチは朝比奈のお気に入りで、二千円也。
忙しい桜庭は二千円渡して勝手に食べてこい、と言いたいところだが、それでは朝比奈が納得しないのを心得ている。
朝比奈の目的は、ランチを食べることではなく、桜庭を連れ出すことなのだ。
朝比奈は以前から何かと理由をつけて桜庭を食事に誘っている。
人と話すことがあまり得意ではない桜庭にとっては面倒なことなのだが、しかし朝比奈は友達というよりは、取引先である。
たまには機嫌をとっておくために、近所に食事に出る程度にはつき合うようにしている。
プライベートなつき合いなどほとんどない桜庭の、唯一の友達だと周囲からは思われていた。
朝比奈は桜庭とは性格が正反対で、誰にでも人当たりがよく好かれる。
そんな朝比奈と親しくしていると思われていることは、桜庭にとってメリットになることもあった。
そんなわけで、朝比奈は実際はフリーなのだが、桜庭建築事務所の専属の肩書きになっている。
フリーでは信用されにくいクライアントに対しては、朝比奈はその肩書きを使う。
お互い持ちつ持たれつの関係だ。
夕方五時になると祥子が帰り、桜庭はやっと自分の仕事に手をつける。
昼間は人と会ったり電話の応対をしているだけで、落ち着いて図面を書いている暇などないのが桜庭の悩みだ。
人と会う用事は祥子がいる五時までにすませて、そこから深夜まで設計の仕事をする。
営業と事務と設計と、一人で三人分働いているのだ。
静かになったオフィスで、腹も減ったし一息いれようかと店屋物のメニューを眺めているところへ、ひょっこりと朝比奈が戻ってきた。
手には図面の大きな筒をいくつも抱えている。
「どうした、こんな時間に」
「これ、修正依頼だってさ。伊地知さんに頼まれた」
朝比奈はドサドサと重たそうに、荷物を空いている机の上に投げ出した。
「修正?」
桜庭は顔をしかめて、戻ってきた図面をチェックする。
「そんな話は聞いてないぞ」
「急いでないってさ。明日にでも見積もり入れるって伝言」
「ああ……そういうことか。それならいい」
桜庭はため息をついた。
一瞬クレームになったのかと考えたのだ。
クレームの修正なら、今夜は徹夜でタダ働きになってしまう。
見積もりを出すというのなら、向こうの都合の修正依頼だろう。
儲けがあるのであれば、それで構わない。
「まーた店屋物?」
朝比奈がメニューを手に取り、顔をしかめた。
美食家の朝比奈にとって、桜庭の食生活は貧困としかいいようのないものに思える。
放っておけば近所の出前の蕎麦か喫茶店のサンドイッチが繰り返し続くだろう。
「仕方ないだろう。忙しいんだ」
「たまには外でうまいもん食おうよ。いいもん食っていい酒飲んで、ストレス発散するのも仕事のうちだろ?」
「俺はお前みたいにヒマじゃないんだ」
面倒くさいやつにつかまった、とでもいうように桜庭の口調はつれないが、それに慣れている朝比奈は、気にもせず食い下がる。
「麻布の新規店舗の近くにライバル店があるから偵察に行くって言ってただろう? 総一郎一人で行けるような店じゃないぜ。俺が連れて行ってやるから」
桜庭の動きがぴたり、と止まる。
朝比奈は心の中で、ニヤリと勝算を確信する。
桜庭の動きが止まる時は、何かを考えている時だ。わかりやすい。
「場所、調べたのか」
「ばっちり。なかなかお洒落な店だぜ。女性客が多いんじゃないかなあ」
ふむ、と桜庭はあごをひねり、考える人のようなポーズになる。
「いいだろう。お前がいる時に偵察しといた方がよさそうだ」
「よしっ、決まり」
どうしても今日中に片づけないといけない仕事ではなかったので、桜庭は朝比奈の提案を受け入れて手早くデスクを片づけた。
そして二人で、目的のカフェへ向かった。
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