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第14話 幸せな朝に

 ――ちゃぷん。  肌にあたる柔らかな湯の感触に、結は小さく身じろいで目を覚ました。  視線の先には、昨日の夕方に見た半露天の内風呂の景色。植えられた楓が朝陽に照らされて、鮮やかな緑色を広げている。 「目が覚めた?」  頭の頂上から降ってきた声に、ぼんやりとしていた意識が呼び戻された。振り返ると優しく表情を浮かべた恋人と目が合って、思わず肩が跳ねる。  昨晩は初めて直人と繋がって、身も心もいっぱいに満たされながら眠りに落ちたはず。指先さえ動かすのも億劫なくらい気怠く火照っていた体の感覚は落ち着いたが、風呂に入るなどできっこないと思っていたのに……。  どういうわけか、彼と一緒に湯につかっている。ちゃんと裸で。  それも胡坐をかいた彼の上に乗せられて、後ろから包むように抱き込まれ、廻された腕に支えられぴったりと逞しい胸に背中を預けた状態でだ。    まだ眠気が残った頭でやっと自分の状況を理解して、わたわたと手足をバタつかせ直人の方に向き直ろうとしたが、失敗した。  信じられないほどに、足腰に力が入らない。  立ち上がろうとして脱力しかけたところを、恋人の長い腕によって引き戻されてしまった。 「……っと、危ないじゃないか、結。おとなしくしてて」 「わ、あ……、えっと、ごめんなさい」  結が体を離したはずみで、今度は横抱きにすっぽりとキャッチされてしまった。  直人の顔が見えるようになって嬉しいけれど、昨日の今日ではさすがに恥ずかしい。  めくるめく愉悦に満ちた時間が勝手に思い出されて、彼の瞳を直視できずに睫毛を伏せた。 「結? いや、驚かせるようなことをした俺が悪い。起きてからと思ったけど、全然目を覚まさないし、早くさっぱりさせてあげたくてね」  かあっと熱を浮かべた頬に彼の手が触れて、腰を支える腕に力が込められた。 「ところで、結……」  低く心地良い声が優しく名前を呼んで、するりと移動してきた指に顎先を持ち上げられた。見上げた先の直人の顔は、とろけそうに甘い色を浮かべて見える。  けれど、覗き込んでくる眼差しは真っすぐで真剣そのものだ。 「結の不安は解消した? 俺が結のものだって、納得できた?」 「へ……」  思いもよらない質問に、結は長い睫毛を瞬かせた。  自分は直人のものなのだと考えたことはあったが、その逆の発想はしたことがなかった。 「なっ、直人さんが……俺のもの? えっ」  戸惑いに目を泳がせていると、ふわりと破顔した恋人に、優しいキスを落とされた。 「あれだけ結のこと求めたのに、そんなに考えないといけないくらい、実感がない?」 「え、あっ……それはっ」  どう答えるべきか考えあぐねている合間にも、催促するようにキスが降ってくる。  唇から鼻先、頬にと彼がキスの場所を変えるたびに思考が溶けて、このままだと何も考えられなくなってしまう。 「す……、ストップ! ちゃんと実感してる、してるからっ」  直人のキスを丁重に引きはがして、赤らんだ顔で訴える。 「本当に? なんなら、もう一度確認してみる?」 「なに言って……っ」  結の手に頬を挟まれたままの恋人が、色っぽく微笑んだ。まさか本気で言ってはないだろうと疑いの視線を向けてみるが、近づいてくる彼の表情は昨晩と同じ熱を帯びて居る気がして、目が逸らせなくなってしまう。  とろりと瞳が溶けていく。    瞬間、チチチチッという鳥の騒がしい囀りが耳について、ハッと我に返った。 「そうだ、チェックアウトは? あれ、今何時?」  突然、早口でまくし立てるように話し出した結に、直人が一瞬目を大きく見開いたが、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。 「それだったら、心配しなくていいよ。もう一泊することにしたから」 「えっ、そんなことって……」 「できるよ。だって、えっちな顔してる結を、他人に見られたくないからね」 「……っ、そんなっ」  ふっと笑みを溢す恋人を前に、どんどん顔が熱くなっていく。そんな顔をしていたんだろうかと手で触って確認してみるが、分かるのは自分の頬の熱感だけで、困り果ててしまう。 「うそ、冗談。可愛い結を、もう少しだけ独り占めしたいのが本音だよ」  なぜか満足そうな直人が、熱くなった頬にちゅっとキスを弾けさせた。  甘い眼差しと言葉の応酬に返す言葉も見当たらず、胸がいっぱいで溶けてしまいそうな気分になる。 「直人さん……、俺、のぼせそう……」  お湯の温度だけでなく、恋人の熱量にも当てられそうになって早々にギブアップを申し出る。すると、体に廻された直人の腕に、ぐっと引き寄せられた。 「うん。そろそろ上がったほうがよさそうだね」 「え、待って。俺、歩ける……っ」  咄嗟に出た言葉は、力強い浮遊感によって一気に攫われてしまった。  あっという間に抱えあげられ、全身が空気に晒される。 「だめ。さっき失敗したばかりでしょう? 今日は一日、俺にお世話されること」 「う……、はい」  結を優しく窘めながら、恋人はずんずんと歩みを進めていく。言われた通り、反論の余地はない。  それにしても、恋人が優しい。  優しすぎる。  いや、優しいのはいつものことなのだが、彼の一挙手一投足が、とてつもなく甘さを増しているようで心が浮きたって仕方ない。  甘やかされること自体は嬉しいけれど、毎回この状況になってしまうのはドキドキしすぎて、身が持たない気がする。これは由々しき事態だ。  ちらりと見上げた恋人は楽しそうだが、結としては恥ずかしさでいたたまれなくなる。    (俺がもっと、体力をつければいいのかな……)    考えに頭を巡らせているうちに、気づけばベットルームへと戻ってきていた。      あっという間に新しい浴衣に着替えさせられて、今は彼が髪を乾かしてくれている。  大きな手が髪を梳いていくのが気持ちが良くて、さっきまでの考えは頭の端に追いやられてしまった。  うっとりと目を閉じていると、ドライヤーの風が止まってぽんっ、と仕上げとでも言うように彼の手が頭を撫でた。 「はい、終わり」 「あ、ありがとう」 「どういたしまして」  落ち着いた低音が耳をかすめて、目を開いた先にはにっこりとした直人がいた。 「喉、渇いてるでしょう? 少し待っててね」  幾重にもクッションを並べて背もたれを作ったベットの上に、結を座らせた恋人が居間の方へと踵を返した。後ろ姿を目で追って、彼にばかり動いてもらっているのが申し訳ない気持ちでいっぱいになる。  けれど、腰に感じる重たい感覚からすると、本当に今日は直人のお世話になるしかなさそうで、情けなくも彼が戻ってくるのを大人しく待った。 「ゆっくり飲んでね」  戻ってきた彼に渡されたのは、良く冷えた麦茶だった。それから、ベットの上に置かれたトレーには、葛餡が添えられたお粥の和朝食が並んでいた。 「すごい。美味しそうな朝ごはん……。ってごめんね。直人さんばかりに色々させちゃって」  てきぱきとした手つきで食事の準備をし終えた直人を、しゅんとした表情で見つめたら、漆塗りのスプーンですくったお粥をひとくち、口へと運ばれた。  滑らかな口当たりの甘いお粥と、上品な葛餡の味が優しく舌の上に広がる。 「気にしなくていいんだよ。結を立てなくしたのは俺だし、その前にちゃんと責任は取るって言ったでしょう?」 「それはそうだけど……」 「はい、もう一口どうぞ」  結が言葉を重ねる前に、すかさずお粥をのせたスプーンが滑り込んできた。もぐもぐと口を動かしているうちに、なんだか満足そうな恋人と目が合って、愛しさに自然と口元が緩んでしまう。 「ありがとう。直人さん」 「こちらこそ」  ベットの上で恋人と一緒に食べる朝食は特別に美味しくて、幸せな味だった。  食事を終えて、満腹にふわふわとした気分でいると、「そうだ」と何か思いついたように彼が呟いた。 「結、しばらく目をつぶっててくれる?」 「なに? 急にどうしたの?」  急な要望に戸惑う結に、ふわりと優しく彼が微笑む。 「いいから、ちょっとだけ。ね?」 「う、うん」  不思議に思いながらも目を閉じると、恋人が立ち上がる気配がした。  時間にすればほんの何秒か、少しの間をおいて首元に冷やりとしたものが触れた。  わずかに重みも感じる。 「目、開けていいよ」  囁く声を合図にそっと目を開けて、その正体に手を触れた。華奢な白銀色のチェーンに小さな鍵モチーフのチャームが揺れている。 「これっ……、ネックレス?」 「うん。出張なんかでバタついてて渡せてなかったんだけど、プレゼント」 「なんで? 誕生日でもないのに……」  驚きに目を丸くすると、形のいい眉を少し下げた彼がほのかな笑みを浮かべた。 「本当はこれを渡して、結に同棲の返事をもらってから、抱くつもりでいたんだ。きちんと順番立ててなんて考え、今どき古いと思われそうだけど」 「えっ、だっ、ど……同棲? もしかして、ここに来る前に言ってた、直人さんが話したかったことって……」  直人の口から初めて聞く同棲という単語に、そわそわと胸が色めく。  今となっては少し前まで絶望していた自分が嘘のようなのだが、予想していた望まない未来とは真逆の結果に、改めて胸をなでおろした。 「そう。同棲のこと。まだ候補の物件を何件かリストアップしただけで、本物の鍵はまだ渡せないんだけどね。その前の約束の証にと思って。って、結の承諾はまだもらってないけど……」 「する! 直人さんと一緒に暮らす!」  食いつき気味に勢いよく言うと、小さく吹き出した直人にぎゅっと肩を抱かれた。愛しそうに見つめてくる涼しげな目元が、甘やかに細められる。 「嬉しい回答だね」 「そんなの、直人さんなら聞かなくても分かるでしょう?」  いたずらに聞いてみると、こつん、と額同士が合わさった。 「分かっていても、確信を持てないこともあるよ。愛している自信があってもタイミングとか順序を考えていたら、今回みたいに結を悩ませて傷つける結果になってしまったりね」 「それはたまたま間が悪かっただけで、直人さんは悪くないし……っ、俺のこと真剣に考えてくれて、大切にしてくれてるってことはちゃんと伝わってるから……」  重なった額が熱い。  色々と思いあぐねていたのは直人も同じだったのだと思うと、嬉しいようなくすぐったいような、幸せと愛しさが入り混じった温かな気持ちが胸いっぱいに広がった。 「ありがとう、結。」  静かに顔を離して見つめた先の瞳は、ひどく優しい情熱を浮かべているように見えた。幸せに微笑んだ結に、とろけるキスが施される。 「ねぇ、直人さん」 「ん、どうした?」  囁くように放たれた低音が心地良い。 「新居はさ、キッチンにオーブンが付いてる家がいいな」 「うん、いいね。そうしたらいつでも、結の作ったケーキが食べられるね」 「それにね、大きいソファーが欲しい! そこで直人さんの髪、俺が毎日乾かしてあげるんだ」 「それは楽しみだね」  少し先の未来に思いを馳せながら、これからも大好きな恋人との時間を大切にしたいと心から思う。    開け放っていた窓から森の爽やかな風が吹いて、互いへの思いを確かにした二人を優しく包み込んだ。

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