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第6話
冬耶は夢を見ていた。
それは、今にも雪が降り出しそうな、とても寒い日の記憶である。
冬耶の両親は共に多忙で、関係は冷え切っており、たまに顔を合わせれば口論ばかりしていた。
その日も、珍しく休日に二人ともが在宅だったというのに、朝から険悪な雰囲気だった。
幼い冬耶は二人に、喧嘩をしないでほしいとお願いをした。
それでなくても、二人とも不在が多く、家族三人揃うということが少ないのだ。
しかし、勇気を振り絞った仲裁も、「これは大人の話だから、子供は口を出すな」という一言で切って捨てられて、冬耶は悄然とその場を立ち去った。
部屋に戻り、勉強道具を手にして、外に出る。
玄関先に座ると、かろうじて車がすれ違える程度の、広くはない通りを挟んで、向かいの家が見えた。
向かいの家にはガレージがあり、そこでは一人の青年がオートバイの洗車をしている。
彼自身は、小さな怪我をしていたり、薄汚れた格好をしていることが多いのに、大きなオートバイはいつもピカピカだ。
彼がそのオートバイに乗って出ていくのを、何度も見たことがある。
ヴォン!と太く高く吼える排気音に、誇りや自由を感じて、聞くとなんだか胸が熱くなるのだ。
季節は冬で、とても寒いが、家の中で二人の口論を聞いているよりは、外で彼を見ている方が、ずっといい。
教科書を開いて、勉強をしているふりをしながら、そっと彼の姿を追っていた。
だが、彼はチラリと冬耶の方を見たかと思うと、どこかへ行ってしまった。
用事ができたのだろうか。
ガレージはそのままなのですぐに戻りそうだが、冬耶に見られているのが嫌だったのか。
不快にさせてしまったかもしれないと心配しているうちに、彼は戻ってきた。
自宅のガレージの方ではなく、まっすぐに冬耶の方へ歩いてくる。
「ほら」
差し出され、思わず受け取ったものは、缶コーヒーだった。
「んなとこにじっとしてちゃ寒いだろ」
彼は笑って、着ていたジャケットを冬耶の肩に着せかけてくれた。
二人とも無言のまま、コーヒーを飲む。
どこか遠くで子供の声がしている。
家の前を、車が通っていった。
彼は、冬耶がこんなに寒い日に外で勉強をしている理由を、何も聞かない。
ややあって、ぐいと自分の分の缶コーヒーを飲み干すと、また愛車の方へと戻っていった。
冬耶は呼び止めたりせず、手の中の細い缶コーヒーを持ち直した。
ぽかぽかする。
空調のきいている家の中よりも、ずっとそこは暖かくて。
「ありがとう、大和おにいちゃん」
もごもごと口の中でお礼を言う。
お礼なのだから、本人に聞こえなければ意味がないと思うけれど、どういうわけか恥ずかしくて、面と向かって伝えることは出来なかった。
案の定聞こえなかったようで、彼は既にオートバイの方に意識を向けてしまっている。
冬耶は、彼が肩にかけてくれたジャケットをかきあわせて、もう一度胸の裡だけで、ありがとうと呟いた。
懐かしい。
『冬耶』の人生の中で、数少ない優しい思い出だ。
彼との優しい時間は、孤独な冬耶にとって大きな支えだったが、終わりの時は唐突にやってきた。
ある日から、向かいの家の周囲を柄の悪い男達がうろつくようになり、そのうち、夜中や早朝に大声の罵倒などが聞こえるようになった。
心配になり、こっそり警察に通報したこともあったが、根本的な解決にはならなかったのだろう。
ある日、学校から帰ってくると、彼の家の前には大きなトラックが止まっていた。
家の中のものを運び出しているようだが、彼の姿も、彼の両親の姿もない。
母に、向かいの家はどうしたのだろうと聞いても、引っ越したのではないかと、冬耶の知りたい情報は何も知らないようだった。
確かに、柄の悪い男達に嫌がらせをされていたようだし、引っ越しは必要だっただろう。
しかし本当にただの引っ越しだったのだろうか?
真相を確かめる術はなく、また一連の出来事から事態を推測できるほど大人でもなかった冬耶は、現状を受け入れることしかできなかった。
ただ…、もうあの時間は戻らないのだ、と、何故かそれだけは確信していた。
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