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第12話

 老紳士の店とは、『NATIVE STRANGER』という名のバーであった。  『バー』と聞いて思い浮かべるイメージ通りの、落ち着いた色味の調度で統一された、優しさと重厚さを感じられる空間である。  カウンターの後ろにはたくさんの酒瓶が並んでいて、酒の飲める年齢ではないから当たり前だが、バーという場所に初めて入る冬耶は、つい緊張してしまう。 「お好きなお席にお掛けください」  信頼できるとは思ったものの、見知らぬ人であることに変わりはなく、あまり奥の席まで行くのは少し不安で、冬耶は入り口からそう遠くないカウンターのスツールに腰掛けた。 「おっと、そういえば、まだ名乗っておりませんでしたね。私は高原晴十郎と申します」 「平坂…です」  苗字を名乗ったのは警戒心からではなく、『とうや』というあまり女性にはつけない名前を、現在の自分が名乗っていいかどうか、迷ったせいだ。 「平坂さんですね。平坂さんは、うどんはお好きですか?」 「うどん…ですか?特に嫌いではないです」 「では、お作りしますね」 「え…、」  うどん?こんな、雰囲気のあるバーで?  そんな疑問が顔に出ていたのだろう、高原はにっこりと微笑む。 「この辺りでは、夜遅くなると食事を提供する店が少なくなるので、軽食を求めるお客様が案外多いのです。それほど手の込んだものではありませんが」 「そ、そうなんですね。あの、でも、そんなにしていただかなくても」  遠慮しようとしたが、言葉をそっと遮るように、目の前にマグカップが置かれた。 「ほうじ茶です。温まりますよ」  年上の人に、あまり固辞するのも失礼だろうか。  冬耶は素直に厚意を受け入れることにして、両手でカップを包んだ。  温かい。  今更ながら、大した防寒もせずに家を飛び出したこと、己の体がとても冷えていたことに気づいた。  なんだか頭の芯がぼんやりして、ゆらゆらと立ち上る湯気を見るともなしに見つめながら、現状を思う。  昨日は……、大学入学共通テストだった。  自己採点をする必要もないくらい散々な結果で、それを両親が知った時のことを思うと、消えてしまいたかった。  夜、忙しい両親から結果を問う連絡が入っていたが、返信もできず布団をかぶって自らの殻にこもっているうちに寝てしまい、起きたら今度は体が女性になっていて、わけもわからず家を飛び出して……。  本当に、自分の身に一体何が起こったのだろう。 「さ、どうぞ」  ほかほかと湯気のたつ、きつねうどんが目の前に置かれた。  出汁の匂いが食欲を刺激して、冬耶は勧められるままに箸を手に取る。  ちゅる、とすすると、とてもやさしい味がした。 「美味しいです……」 「それはよかった」  優しい声音に、なんだか泣きそうになってしまう。  冬耶は頭を切り替えるように聞いた。 「バーって、もっと何か…堅いというか、こうじゃなきゃいけないみたいなルールとか、そういうのが色々ある、難しいお店だって思ってました」 「私の店は、他のお客様へのお気遣いをいただける大人の方であれば、どんな方でも大歓迎です」 「うどんを食べたい人でも」 「はい。これもお客様のご要望にお応えして始めたものです。そんなことをしているせいか、私のことを便利屋か何かと勘違いしているお客様も多くて…」  冬耶への面倒見の良さを考えれば、頼りにする人の気持ちはわかる。 「頼りにされているんですね」 「光栄だとは思いますが、先日などは、いい歯医者を紹介してほしいと頼まれて、困惑しました」  相談した人は、なぜバーのマスターが歯医者の斡旋をしてくれると思ったのだろうか。 「通っていた歯科医院が閉院してしまったというのです。なんでもその歯医者、相談に来た方が何年も悩んでいた歯痛をたった一度の治療で治した名医だったそうで、代わりの歯科医が見つからずに困っていると」 「その歯医者さんは、そんな名医なのにどうしてやめてしまったんでしょうか。お年だったとか……?」 「それが、チベットを旅行していたら突然第三の目が開いて、現世のものが見づらくなったので今まで通りの診療が難しく、廃業することにしたのだとか」 「だ、第三の目……?」  廃業理由が予想外すぎる。 「推測ですが、治療家としての腕が神がかり過ぎたのでしょうね。こういった方で、人を癒す仕事を長く続けられる人は少ないように思います」 「は、はあ……、」  そんなことがあるんですね、としか言えない。  しかし、医者か。  彼が自分のことを知るはずもないのに、選ばれた雑談に何となく因果を感じて、冬耶は苦笑した。 「実は…、お、……私も医者を目指していたんです」 「そうなのですか。お勉強が大変でしょう」 「親が望んだので、ずっと頑張っていたんですけど……勉強は、苦手で。でももう、しなくてよくなったというか、できなくなったというか」 「できなくなった?」 「…………………………」  言ってしまえと誰かが囁く。  彼は、第三の目だとか、客からそんな不思議な話をされているような人だ。  その話を本当に信じているのか、それはわからないが、非現実的な話を聞いても、適当に受け流すくらいはしてくれる気がする。  冬耶は、不遜ながら相手の気持ちを試すように、告白をした。 「俺の名前は、冬耶といいます。今は女性の身体ですが、昨日までは、男でした」

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