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第11話
オムライスは優しい味で、とても美味しかった。
張り詰めていた気持ちが、緩んでいくのを感じる。
「美味しいです!」
「それはよかった」
晴十郎は穏やかな笑みで応え、手際よく自分の分も作り終えると、冬耶の食べている物と同じく完成されたオムライスを手に、ダイニングテーブルの対角に座った。
どんな時も落ち着いた態度の晴十郎のそばにいると、心が落ち着く。
寿命の延びるような心地でオムライスを頬張りながら、冬耶は彼と出会った時のことを思い出していた。
三年前のある朝。
起きたら体が女性になっていて、冬耶は混乱したまま、家族にその姿を見られることを恐れて家を飛び出した。
居場所がわかってしまうかもしれないとスマホは家に置いてきたが、親から与えられる小遣いは、スマホでのみ使える交通系ICカードへのチャージという形だったので、財布の中にはほとんど現金が入っていない。
このわずかな所持金では長距離移動なんてできそうもなくて、それでもとにかく家から遠くに行かなくてはと、冬耶はひたすら歩いた。
半日歩いたら足が痛くなり、見知らぬ土地の小さな公園のベンチに座り込んで、頭を抱える。
これからどうするべきかを考えなくてはならないのに、頭の中がごちゃごちゃで、何も考えられない。
絶望感からしばらくそこを動けずにいたが、日が暮れてくると流石に空腹を覚え、残り少ない所持金でおにぎりの一つでも買うかと立ち上がった。
幸い、長く歩くことなく、賑やかな通りが見えてくる。
雑踏の中、コンビニを探してキョロキョロしていると、冬耶の方にまっすぐ歩いてくる男に気付いた。
「ねえ、ちょっといいかな」
声をかけられて、まさか自分に用があるとは思わず驚く。
よく顔を見てみるが、まったく知らない人だ。
中年というにはもう少し若い中肉中背の男は、装いこそさほど派手ではないが、明らかに一般的な企業に勤めるサラリーマンには見えない。
怪しいとは思ったが、この時の冬耶には、それをすぐさま危機感に結びつけることはできなかった。
「何か探してるの?」
「コンビニを……」
「コンビニなら近くにあるよ。案内してあげる」
「そんな、大丈夫です。場所だけ教えてもらえれば…」
断ったのは、恐怖を感じたからではなく、遠慮をしたのだった。
心の底からの拒絶でないことは伝わったのだろう、男も食い下がる。
「遠慮しないで。そこ、ちょっとわかりにくいところだから。コンビニってことは、もしかしてお腹空いてるの?お金ないならさ、」
「強引なスカウトは感心しませんね」
調子のいい言葉にかぶせるように低い声がして、二人でそちらを見た。
視線の先に立っているのは、チェスターコートを羽織った白髪混じりの六十代くらいの男性だ。
その姿を見た男の表情が、焦った卑屈な笑みへと劇的な変化を見せる。
「高原さん…。い、いや、これは、別にそういうんじゃなくて、この辺りじゃあんまり見かけない女の子が心細げに歩いてたから、道案内をと思ってですね……」
「親切なのはよいことですが、彼女は遠慮されたいようですよ」
「そ、そっすね、じゃあ、俺はこれで……」
そそくさと去って行く男を首を傾げて見ていると、丁寧な言葉遣いの老紳士は、何歩か冬耶との距離を縮めた。
「大丈夫ですか?」
「あの人は、一体……?」
「あまり褒められたものではない方法でお金を稼いで暮らしているチンピラですよ」
アダルトビデオや風俗店のスカウトだったと説明されて驚いた。
そうした世界があること、街中で勧誘があることも知識として知ってはいたが、男として生まれ、夜の街とも遠い生活をしていた冬耶には、どこか遠い世界の出来事だったのだ。
そして、やはり自分は誰の目から見ても女性なのだと知り、暗澹たる気分になる。
ということは、今更ながら、目の前の老紳士は自分を助けてくれたのだ。
頭を下げて礼を言うと、老紳士はしげしげと冬耶を眺めた。
「顔色があまりよくありませんね。急いでいないのであれば、私の店で少し休んでいきなさい」
冬耶は慌てて首を横に振る。
休む場所を提供してもらえるのであればありがたいし、彼は悪い人ではなさそうだったが、見ず知らずの人に甘えるのは気が引ける。
「だ、大丈夫です」
「たった今危険な目に遭いそうになったばかりで、私も先程の男と同業かもしれない。それが心配ですか」
「いえ、そうではなくて……、」
お店だということなら、払う金がないのだと、素直に打ち明けた。
老紳士は、そんなことですかとにっこり笑う。
「開店前の店の椅子を少し貸すくらいで、若い方からお金をとったりはしませんよ。どうかこの年取りを信じてもらえませんか」
ここまで言ってもらってそれ以上固辞するのも申し訳ない気がして、また目の前にいる人は信頼できるような気がして、冬耶は申し出に甘えることにした。
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