32 / 70

第32話

 冬耶がそう言うことを予測していたのか、うどんはさして時を置かずに目の前へと運ばれてきた。  出汁と、いっしょに煮込んだ肉や長ネギの香りが食欲をそそる。  悲しいときも、美味しいものはやはり美味しいのだ。 「五十鈴、貴女にも」 「やった。『NATIVE STRANGER』の裏メニューが食べられるなんて、今日はついてるね」  うどんは3人分ダイニングテーブルに並んで、少し変わった顔ぶれでの夕食になった。 「そういやあれだ、五丁目の公園の工事の話を聞いたかい?」 「ええ。再開発でこの辺りも賑やかになるというのであれば結構なことですが、十全に準備をしてからやっていただきたいですね」 「あんた行って少し指導してやったら」 「とんでもない。私はしがないバーテンダーですから、都市計画に口を出すようなことは」 「ま、こちとら民間人だからね。何かあれば、専門機関に通報するくらいしかできないよね」  晴十郎と五十鈴はそれなりに年も離れているし、仕事内容にしてもあまり接点はなさそうなのに、昔からの友人のように対等に話をしている。  不思議だが、悪い雰囲気ではない。  和やかな食卓に慣れていない冬耶は、少しくすぐったい思いで黙々とうどんをすすった。  食事を終えて、晴十郎がそれぞれの湯飲みにお茶を注ぎ足すと、五十鈴は冬耶の方へと向き直った。 「さて、腹もくちくなったところで、本題に入ろうか。まあ、恐らくあんたには信じ難い話になるだろうが、まずは最後まで聞いて欲しい」  一体どんな話なのかと少し不安に思いながらも、頷く。  妙に緊張してしまい、背筋を伸ばして膝の上の手をぎゅっと握った。 「前提として、あんたは陰陽説、陰陽思想を知ってるかい?」 「陰陽って…陰陽師とかの陰陽ですか?」 「それそれ。陰陽ってのは、中国の古い思想の一つで、この世の全ての状態を表す概念さ」 「はあ……」  なるほど、確かに信じ難いというか、想像もしていなかった話が始まった。  うっかり結論を急かしそうになり、冒頭の「最後まで聞いてほしい」を思い出してすんでのところで堪える。  五十鈴は、恐らくそんな冬耶の気持ちには気付いているだろう、苦笑混じりに説明を続けた。 「勾玉が上下逆になってくっついたみたいな、白と黒の丸いマークを見たことはないか?」 「あ、それは何となくわかるかも……」 「太極図、タオマークとも呼ぶけど、あれも陰陽を表した図だ」  五十鈴は懐から手帳を取り出すと、そこにその太極図を書きつける。 「陰陽思想では、二元論的に性質や現象を区別する。「陰」は受動的、防御的、沈静的な状態に傾いている、女性的な傾向を示し、逆に「陽」は能動的で攻撃的、昂進状態をさし、男性的な指向性、というように」  女性が陰気ってことなのだろうかと少々不穏な気持ちになったが、陰陽説による「陰」には、一般的に想像される「暗い」「陰気」というマイナスの意味はなく、あくまでその性質、状態を示すらしい。  わかるような、わからないような。 「二つに区別するといっても、この図が陰陽二つで一つのマークになっていることからわかるように、陰と陽はたがいに背中合わせで、周囲の状況によってその捉え方やありようが変化するとされている。たとえば、灰色は白の中では黒く見えるし、黒の中では白く見えるだろう?」  陰の中にも陽が、陽の中にも陰がある、と、小さな黒丸をなぞる。 「陰陽が一つになったこの状態が、万物の調和がとれている理想的な状態ってわけだ。じゃあ、これがどちらか片方だけになってしまったら?」  五十鈴は、黒い方の白丸を真っ黒に塗りつぶした。  勾玉の片方が真っ黒になると、それだけで随分バランスが悪く見える。 「そうなると、どうなるんですか?」 「この世の理から外れてしまうのさ」 「この世の、理から……?」  よくわからず首をひねっていると、今度は晴十郎が口を開いた。 「冬耶君は、能をご覧になったことはありますか?」 「えっと……ないです」 「古典芸能には、人間が嫉妬や恨みなどの負の感情を募らせ、鬼や蛇と化していく演目があります。あれらは、人が負の感情のみに支配されることで、陰陽のバランスが崩れ、この世の理から外れてしまったということなのです」 「な、なるほど……?」  なんだか怖い話になってきたなと思っていると、五十鈴がぐっと迫ってきた。  謎の迫力に、冬耶は椅子の上で軽くのけぞってしまう。 「ピンと来ないかい?」 「え?」 「精神のバランスを欠くと、姿が変わってしまうってあたりにさ」 「………………えっ!?」  まさか、それが冬耶の身体の変化のメカニズムだというのだろうか。 参考:新紀元社「魔法事典」山北篤監修

ともだちにシェアしよう!