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第34話

 はっと目覚めると、窓の外の太陽はすっかり高い位置にある。  朝は起きて朝食はとったものの、その後ベッドで電子書籍を読んでいるうちに眠ってしまったようだ。  我ながら気だるい日々を送っているなと、自嘲する。  二人から自分の体についての話を聞いた翌日、五十鈴の言うように頻繁な変化で体に負担がかかっていたのか、あるいは失恋のショックによるものか、冬耶は体調を崩し、寝込んだ。  三日ほど続いた微熱が下がり、目立った症状はなくなっても、折れてしまった心は戻らず、冬耶はそのまま晴十郎の家で毎日だらだらと過ごしている。  国広から、店に出て来いという催促は来ない。  恐らくだが晴十郎が、今はそっとしておくようにと言ってくれたのではないか。  無断で仕事を休んでいる後ろめたさを感じながらも、今は国広といつものようにやり合う元気が出そうもなくて、連絡のないことに甘えてしまっていた。  思えばこれまでの人生、こんなに何もしない一日を過ごしたことはなかったように思う。  物心ついた頃から、家にいても本を読んだり、勉強ばかりしていた。  今ならば少しわかる。そんなに勉強をしていたのに大して身に付かなかったのは、自分の目的が、何かを学ぶ事ではなかったからだ。  冬耶が勉強をしていれば、成績が良ければ、両親は満足していた。  冷え切った家庭の中で、親からの無条件の愛を信じられなかった幼い自分は、何とかして切り捨てられまいとしていたのだろう。  そういうことがわかるようになったのも、『JULIET』での経験のおかげだ。  夜の街で働く人たちは、みんな様々な事情を抱えている。  そこでは、自分のような「普通」からはみ出してしまった者にも、居場所が作れるということを知った。  そういう意味では、強引に仕事を与えてくれた国広にはとても感謝しているのだ。  あれは今思い出しても、あまりにも唐突な勧誘だった。  国広との出会いは、晴十郎と出会ってすぐ翌日のことだ。  冬耶を保護してくれた晴十郎は、バーで話を聞いてくれた後、行くあてがないことを気づかい、「部屋も余っているので良かったら使ってください」、と自分の家まで連れて行ってくれた。  恐縮しながらも老紳士の包容力に負けて、あてがわれた部屋で素直に一晩を過ごした翌朝。  用意してもらった朝食をとりながら、生活必需品を揃えるために買い物に行こうという提案に、何から何まで申し訳なく、どう返事をしようと悩んでいた時だ。  玄関が開く音がして、どすどすと一切遠慮のない足音がダイニングへと近づいてきた。  晴十郎は一人暮らしだと言っていたので、冬耶はどうしていいかわからず老紳士を見る。  彼は、「孫です。大丈夫、座っていてください」と穏やかな声音で言ってくれたが、目つきがやけに剣呑なものに変わっていた。 「おい、ジジイ、……何だこいつ」  戸口に現れた三白眼の青年は、すぐに冬耶に気づき、眉をひそめる。  半端に伸ばした褐色の髪におどろおどろしいスカル柄のスカジャンを羽織ったその姿は、絵に描いたような「ヤンキー」そのもので、進学校に通っていてそのような人たちと縁のなかった冬耶は、怯んでしまって軽く会釈を返すことくらいしかできなかった。 「朝から何の連絡もなく無遠慮に上がり込んできて何ですか。この方は、しばらくうちに住むことになった平坂さんですよ。失礼のないようにお願いします」 「家出か?」 「詮索無用です」 「お前、仕事は?」 「国広」  晴十郎の制止などどこ吹く風で、家出と決めつけた(実際そうなのだが)国広は、ぐっと迫ってくる。  冬耶はふるふると首を横に振った。 「よし、採用だ」 「さ、採用?」  ビシッと突き付けられた指に、何のことかわからず聞き返す。  己の言動に一切疑いを持たない国広は、そうだ、と大きく頷いた。 「お前は、俺の店で働け。働かざる者食うべからずだが、家出っつーなら、ちゃんとした仕事に就くのは難しいだろ。ジジイに家賃納めるためにも、どうだ?」 「お前は一体何を言っているんですか。平坂さん、家賃など必要ありませんよ」  晴十郎はそう言ってくれるが、確かに、自分の所持金はほぼゼロで、働く必要はあった。  国広のことは少し恐いが、なんといってもこの人格者、晴十郎の孫なのだから、見た目ほど怖い人でもないかもしれない。  あてもないし、話だけでも聞いてみてはどうだろうかと思う。 「あの……、そのお仕事って……お、私にもできることなんでしょうか……?」 「人間の形をしていて、相槌が打てればできる簡単なお仕事だ」  ……それがまさか、キャバ嬢とは思ってもみなかったが……。  晴十郎が止めようとしていた理由は、後からわかった。  国広の言うほど簡単な仕事ではなかったし、そもそも元は男の自分がしていい仕事なのかどうかは今も悩むところだ。  だが、最初のうちは戸惑ったが、想像していたよりも嫌な客というのは少なく、世間をまったく知らない冬耶にとって、得るものは大きかった。  恩もあり、大切な場所でもあるが、このまま『JULIET』でキャストとして働き続けることができるかというと、少し自信がない。  店が仁々木組のシマ内にある以上、御薙と顔を合わせてしまう可能性は、大いにある。  顔を見れば悲しい気持ちになってしまうだろうし、相手も不快な思いをするだろう。  辞めてどうするか、というのはまだ具体的な案は思い浮かばない。  幸い、生活費を収めるほかはほとんど支出がなかったため、多少の蓄えはある。  晴十郎もゆっくり考えればいいと言ってくれているし、今は少し休もうと、冬耶は考えるべきことをすべて脇に置いて、再びベッドへと身体を沈めた。

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