16 / 32
第十五話
山中でおかしな声を聞いた。
谷越え藪抜け馳せ参じれば、山菜採りの途中で迷ったらしい少女が赤ん坊を背負い号泣していた。
おそらくは里の子。
肌は泥だらけで浅黒く、貧相に痩せこけていた。あちこち継ぎを当てた野良着がみすぼらしさに拍車をかける。
少女がいくらあやしても赤ん坊は泣き止まず、猿に似た顔を真っ赤に腫らし、甲高い声を張り上げる。
『どしたらええべ』
そこへ悠然と踏み出す。
異形の獣を目の当たりにするや腰砕けにへたりこみ、背に括り付けられた赤ん坊が泣き止む。
『権現さま?』
里でそうよばれていることを知らずにいた。
少女はその場に突っ伏して手を合わし、必死に命乞いする。
『お、おらなんか食ったってうまかねえべ』
少女は泣きながら権現を拝み倒す。棘で切ったのか、小さな手の甲は傷だらけ。
『おねえげえします、弟だけでも見逃してくだせえ』
おもむろに歩み寄り、少女の手をべろんと舐める。
『ひっ!』
続けて盛大に顔を舐め回し、着物を咥えて背に乗せる。
その後は山を翔け森を抜け、日が暮れる前に里に送り届けた。
おっかなびっくり地面に降り立った少女は、懐っこくうなだれた権現の頭をなで、はにかむように微笑んだ。
『あんがとなあ、権現さまあ』
権現の姿が見えなくなるまで少女は手を振り続け、背中の赤子は楽しげにはしゃいでいた。
人の子のぬくもりを初めて知った。
権現は年端もいかぬ童子とのふれあいを好んだ。
山に棲まうゆえ交流する機会こそ少ないが、迷い子を見付ければ先導して里に帰してやった。その際は手土産に柿や桃、栗を持たせてやる。
権現は自分が何者かわからぬ。
気付いた時にはこの姿で此処におり、神に属するものか獣に属するものかも判然としない。山の霊気がこごったもの、というのが一番近いかもしれない。
里の連中は誤解している。権現は人を喰わぬ。生贄も欲さぬ。子供の肉など言語道断だ。
権現は孤独だった。
気が遠くなるほど永い歳月、番いも子も持たず山奥に独りで過ごした。
美しく光り輝く毛皮と姿を消す能力を持ち、季節を操る権現は、山の獣どもに崇められた。
十江山に暮らす動物は熊も猿も猪も空飛ぶ小鳥ですら権現を畏怖し、軽率に近寄ろうとはしなかった。
人の子は別だ。
子供は元来好奇心旺盛な生き物だ。山で拾った迷子も例外ではない。
最初は異形の見た目に怯え、食われるかもしれないと怖がるものの、権現が温順な性質と判明するやたちまち心を開いて懐いてくる。
人の子に頼られるのは不思議と悪い気がしない。たてがみに抱き付いて眠ってしまった子を可愛いとさえ思った。
ある時を境にやけに迷子の数が増えた。
権現は親を求めて泣く子を見かね、何度も里へと送り届けた。なのに迷子の数は一向に減らず、朝昼晩と現れる。同じ子の姿を見かける事も増えた。
その日も子供の声が聞こえた。
藪をかき分け行ってみると、頬被りをした百姓女が娘の前に屈み、何かを懸命に言い聞かせていた。
『お願いだから聞きわけとくれ、おっかあも辛いんだ。今年は日照り続きで酷い凶作なんだ』
悲痛な表情で続ける。
『お山にはアンタの好きな柿がある、桃や栗だってとれる。うちにいたって食うもんねえんじゃどのみち一家全滅だ、与作ンとこみてえに揃って首吊るしかねえ』
わかってくんろ、わかってくんろ……噛んで含めるように繰り返し、跪いて娘を抱き締める。
『怖がるこたねえ、お山には権現さまて神様がいる。おっかあも小さい頃会ったんだ』
『本当?』
『本当だども、おめに嘘吐くわけねえべ。だから泣くこたねえぞ、権現さまがきっと守ってくださる。権現さまは子供が好きで優しい神様なんだ、おめのこともきっと悪いようにはしねえ』
娘の涙を拭い微笑む顔には、権現が昔会った、いとけない少女の面影が薄っすら残っていた。
漸く理解した。
最近山でやたらと見かける子供たちは迷子にあらず、捨て子なのだと。
里では凶作が打ち続き、百姓たちは酷い飢饉に喘いでいた。姥捨てや間引きも猖獗を極めている。
十江村の百姓は七ツ前の我が子の手を引き、十江山に捨てにくる。同じ子の姿を見かける理由も合点がいった。
がさりと音が鳴る。
釣られて顔を上げた母親が、こけた頬に恐怖と後ろめたさを綯い交ぜにし呻く。
『権現様……どうかお許しを。生きてくにはこうするしかねえんです』
その場に這い蹲って合掌し、かと思えば踵を返して逃げ出す。
後にはただ一人、幼い娘だけが残された。
権現は嘗ての少女とよく似た娘の顔を舐め回し、丁寧に涙を啜った。
斯くして権現は捨て子の仮親となった。
真実を知った今、子供たちを里には帰せない。仮に送り届けた所で山に戻される繰り返し、最悪親の手で始末される。
権現は捨て子の群れを眷属に引き入れた。
帰る家がなく行くあてもない子供たちに、そうすることで新たな居場所を与え直した。
『おらにくれるの?』
木の枝に実った桃をもぎ、少女に渡す。一口齧った途端血色がよくなり、ぱさぱさに乾いた髪が艶を取り戻していく。
『おいしい』
十江山は権現の庭だ。
結界内にいる間、子供たちは年をとらない。
『七ツまでは神の子、最初から娘はいなかったって諦めるんじゃ』
『十江山には権現様がいらっしゃる、子供たちを守ってくださる』
『おちよは権現様の子になったんじゃ。ありがたやありがたや』
『権現様は金色に光り輝くそれはそれは綺麗な獣の神様なんじゃ』
『権現様の神通力は山に実りをもたらす、金輪際飢えずにすむんじゃから果報者と喜ばねばバチが当たるぞ……』
ひそひそひそひそ、百姓たちが囁き交わす。大人たちは祟りを恐れ十江山に近付かない。我が子を捨てた後ろめたさもあるのだろうか。
権現は親きょうだいに見放された子たちを哀れみ、神通力で作り上げた箱庭に匿った。
斯くして権現は独りではなくなった。
己を唯一の拠り所と恃む人の子と心を通じ、母性に目覚めた。
大所帯となって暫くのち、一人の少女が結界を抜け、麓近くまでさまよいでた。
少女が山に来てから何年も経っている。変わらぬ姿で現れたら村人が驚く。化け物と間違えられ、討伐されたら大変だ。
少女の身を案じて迎えに来た権現が目にしたのは、村境の道をしずしず歩く花嫁行列だった。
付き添いに傘を差しかけられた乙女は、文金高島田に結ったぬばたまの黒髪に角隠しを被り、白無垢に色打掛を羽織っていた。
庄屋の娘の輿入れだろうか。
『綺麗だなあ』
木の影から覗き見、少女がうっとり頬を染める。
『おらもあんなべべ着たかった』
ポツリと呟き、美しい花嫁に羨望の眼差しを向ける。椿油でも塗ったのだろうか、艶やかな光沢帯びた髪には豪奢な簪が何本も挿さっていた。
『花嫁さんの髷の金ぴか……きらきら光って綺麗だなあ。おらもしてみたい』
少女は熱に当てられたような面持ちで、華やかな行列の殿を見送っていた。
権現は全能ではない。
山の天候や季節を操るのは容易でも、もとよりボロかった子供たちの着物を仕立て直す技能は持たない。
『見て見て権現さま!花嫁さんのかんむり、上手にできたべや』
帰り道で拾い集めた銀杏の葉に蔓を通し、冠を編んだ少女の笑顔を見て、心を決める。
『権現様が夢に出た!』
『半兵衛の所にも?』
『お前んとこもか』
『権現様は稚児行列をお望みだ、綺麗な天冠とべべを用意しろとさ』
『逆らったらどうなるか……』
『凶作はごめんだ』
『飢饉になりゃあ大勢死ぬ、下手すりゃ全滅だ』
『と、とりあえず神主さまのお知恵を借りにいくべ』
権現が持って帰った綺麗な衣装に子供たちは大はしゃぎし、烏帽子や天冠を付けて走り回る。
『あんがとなあ、権現さまあ』
花嫁に憧れた少女は一際喜んだ。唐草模様の透かし彫りが入った天冠を戴き、銀杏の冠を権現の頭にちょこんと乗せ、満ち足りた笑顔でたてがみに頬ずりする。
お山に入った子は成長しない。永遠に七ツのまま、山神に仕え続ける宿命。
稚児行列は人の子の無病息災を祈念し行うと聞いた。
花嫁に見とれた少女が嫁ぐ日は永遠にやってこない。
ならばせめて自分の加護のもとでは健やかであるように、久遠の幸せが続くようにと祈り、母なる権現は子供たちに新しい衣装を与えた。
衣装を奪った稚児には代わりに木の葉を被せ、風邪をひかないように取り計らった。
『権現様は何故生贄を選ばなんだ』
『気に入る子がおらなんだか』
『去年はべべと飾りだけとられた』
『山神さまの機嫌損ねたらまずいことになんべ』
『災いが降りかかるぞ』
『今年こそは稲が実らば蓄えが尽きる……』
『どうしたもんだべか』
次の年は子供が消えた。村人たちは権現の仕業だ、神隠しだと言って恐れた。
濡れ衣である。
祭りの翌日、麻袋に詰められた男女の子供を拾った。二人ともきらびやかな稚児装束に身を包み、袋の中で固く手を握り合っていた。
聞けば共に不幸な身の上だ。
水呑百姓の倅の男の子は継母にいじめられ、八人きょうだいの末の女の子は辛く当たられていた。
稚児行列の順番には意味がある。
殿に回されるのは家族が厄介払いしたがっている余り者。
神主は儀式の実行役として子供をさらい、袋に放り込んで十江山に連れて行く。
『今年は絶対選ばなきゃいけないの』
『男と女の番いを奉納すれば、食わず嫌いの権現さまもきっと満足するべ』
箱庭の桃を分け与えられた男の子と女の子がしょんぼり俯く。
権現は人の悪意を侮っていた。
神主には体裁がある。
権現のお告げを受けた以上何に替えても生贄を捧げ、大任を果たさねばならぬ。
村人たちには事情がある。
ここ数年は凶作と飢饉が続き、余分な子供を間引かねば暮らしが立ち行かぬ。
権現が連れ去りを拒めとて大人が勝手に連れて来る。
生贄に選ばれるのは名誉なこと。お山にやられた子は永遠に年をとらず、幸せに暮らせる。
ならば。
ならば。
次の年、行列の殿に付いた子供をさらった。次の年も次の年も次の年も、神主が代替わりしてもさらい続けた。
権現はただ村人に望まれた役目を果たしただけ。神隠しは必要悪。
直接親の手にかかるより、得体の知れない山神にかどわかされた方がまだマシだ。
里に帰したところで待ってるのは生き地獄。もとよりいらない子たち、人買いに売られるかこっそり殺され埋められるのが関の山。
ならば遍く引き受けようぞ。
皆等しく我の稚児、我の珠たる愛し子也。
『聞け権現。弥助の娘を返してもらいにきたぞ』
億劫げに視軸を上げ、玲瓏と光る満月を背負い、大岩の頂に立ちはだかる山伏を睨む。
さらったとは失礼な。連れ帰っただけだ。
『どうちがうというのだ』
我が連れ去るのは寄る辺なき子のみ。あの娘は家に帰りたくないと泣いていた。
『手違いだ』
何?
『殿に回すように手引きしたのは継母だ、私用で隣村に泊まっていた父親は知らなんだ。おおかた懐かない継子が邪魔になったんだろうさ』
……母にぶたれると言っていた。髪を引っ張られる、とも。
『弥助は後妻の仕打ちを露知らず、恋女房の忘れ形見を可愛がっておった。それが悋気を煽ったのか……娘が心煩わず暮らせるように儂も取りなす、改心せぬなら離縁も辞さぬと弥助は息巻いておる』
信じられぬ。
『気持ちはわかる。が、おゆうは人の子だ。ならば父と里で暮らすが道理、山で神とは暮らせぬ。人は人の理を外れてはいかんのだ』
山に谺す太く朗々とした声音で宣言し、精悍な山伏が十二の遊輪を掛け連ねた錫杖を回す。
『おゆうはどこだ?』
言わぬ。
『どうしても渡さぬか』
言えぬ。
『左様か』
問答を打ち切った山伏が鮮やかに跳躍、巨大な錫杖を振り抜く。紙一重で直撃を躱して後退、前脚を撓めて咆哮する。
山伏が鋭い呼気を吐いて正面を薙ぎ払い、権現が黄金の烈風と化し錫杖を跳び越す。
獲物を見誤った錫杖が岩石を破砕したのを確認後、山伏が首から外した念珠を豪快に揉みしだき、待機から跳躍の姿勢に移行した獣の足元に投擲。
『臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!』
念珠に前脚を搦め取られた権現に向かい、素早く九字を切る山伏の顔は煤祓正に瓜二ツだった。
てことは、アレがご先祖様?
権現に陳情したと古文書に記されているのは成願寺十八代宗主、鉄心だ。
先祖と山神の壮絶な死闘を目の当たりにし、漸くこれが夢だと悟る。
古文書に綴られた記述が事実なら、このあと鉄心は戦いに勝ち、無事おゆうを連れ戻すはず。
はたしてそれが正しいのだろうか?
ともだちにシェアしよう!