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第十四話
おもむろに空が翳り木々が揺れだす。
正が錫杖を構え、茶倉が式札を翳し、玄が念珠を掴む。死角を作らぬように背中合わせの陣を敷き、互い違いにあたりを睥睨する。
まだ肌寒い春先、十江山中腹の雑木林に奇跡が顕現した。
山頂から裾野にかけ女神が裳裾を広げる如く、あるいは極彩の錦絵を紐解くが如く大地の色が塗り替えられていく。
山桜の老木が満開に咲き誇る。
楓の葉が燃えるように赤く色付き、野生の藤が重たげにしなだれ、薄紫の木槿と純白の木蓮があえかに綻ぶ。
あたり一帯に漂うあまい香りは熟れた果実の匂い。丸々とした桃や柿、瑞々しい無花果やサルナシが枝に実ったそばから爛れて落下する。
「権現の結界か」
正が片手に携えた錫杖を打ち振り、人さし指を立て護身の真言を唱える。
「春に柿はならん。四季がデタラメや」
「これが山神の力?」
「待ってえー」
「おいてかないでー」
急激に草が伸び、蔓が蔓延り、花々が咲き乱れる。
権現の箱庭が十江山に出現する。
楽しげに笑い転げながら三人の横を走り抜ける子供たち。
笛を吹く子がいる。風車を回す子がいる。木の枝に並んで腰かけて歌い、果実をもいで齧る子がいる。いずれも上衣に色袴の稚児装束に身を包み、頭に烏帽子に天冠を飾っていた。
目に映る光景は極楽浄土を思わせた。子供たちは皆俗世の煩悩と切り離され、幸せそうに笑っている。
「遊びをせんとや生まれけむ、か」
『梁塵秘抄』の一節を口ずさみ、茶倉が一歩踏み出す。
「おーい、聞こえとるか権現!吉田みどりはそこにおるんか?」
子供たちの声が止み、甘い風が絶える。
静寂に包まれた異界を悠揚迫らざる物腰で見回し、続ける。
「覚えとるやろ、十年前の祭りの日にお前が攫うた子や。口元にほくろがある……」
刹那、風が吹いた。
正面に現れた幼い少女は、十年前と寸分違わぬ姿の吉田みどりだった。
「無事だったかみどりちゃん!ずっとさがしてたんだ、お父さんも心配してる、家で帰りを待ってるぞ」
喜び弾ける正の呼びかけに、みどりがビクリとする。
「怖がらなくていい、おじさんたちは君をお迎えに来たんだ。安全にうちに送り届けるって約束する、信じてくれ」
切羽詰まった調子で訴える父親を背に、玄が真剣な表情でみどりに手を伸ばす。
「十年も見付けらんなくてすまねえ。俺たちが頼りねえばっかりに、むざむざ連れてかせちまった」
玄と正もいたずらに手をこまねいていたわけではない。失踪当時は吉田のチラシ配りを積極的に手伝い、懸命に情報提供を呼びかけていた。
しかし歳月が過ぎるに伴い事件の記憶は薄れ、杳として行方が知れないみどりの存在は忘れ去られていった。
『権現様の祟りだよ、みどりちゃんの事は可哀想だが諦めるしかない』
『祭りの日にゃお稚児さんが消えるんだ、ずっと前からそうだった』
『煤祓さんがもうちょっとしっかりしてくれてたらねェ』
『毎度毎度何のために祭りに招待して酒おごってたんだかわかんないよ、図体でかいばかりで役立たずなんだから』
『しっ、聞こえちまうよ』
『構わないさ』
『煤祓さんの先祖が権現さまを調伏したのは何百年も前の話だろ?霊験と血が薄まった末裔に期待すんのは酷ってもんさ』
正と玄は十年、心ない陰口を耐え忍んだ。
「かくれんぼはおしまいだ。帰るぞ」
吉田みどりの存在は正と玄の心の棘だ。無事に連れ帰る事が叶えば村人の信頼と先祖の名誉を回復できる。
子供の姿のままでは怪しまれるだろうが、それはあとで考えればいい。
玄はあの日あの時、みどりを救えなかったことを悔やみ続けている。
祭りの前後だけ帰省するのは自主的にみどりを捜す為。決して茶倉が言うように上げ膳据え膳でゴロゴロしていたわけではない。
時に里に下りて村人に聞き込み、時に山を駆けて手がかりを求め、喉が枯れるまでみどりの名前を呼び続けた。
バイクで全国を旅する間も常にみどりの安否を気遣い、行く先々で失踪児童の情報を集め、みどりに似た子の目撃談があればエンジンフルスロットルで確かめに行った。
何度も何度も裏切られた。
「何してる、早く来い!」
諦めきれなかった。
寺を継がず定職にも就かず根無し草よろしく放浪し続けたのは、どこかに消えてしまったみどりを捜すため。
ことここに至るまで権現を目にした事がなかった玄は、祭りの日に出入りした人間がみどりを連れ去った可能性を捨てきれず、警察が捜索を打ち切った後も全国を回り捜し続けた。
玄は平成生まれだ。
高名な修験者を祖父に持ち、成願寺の跡継ぎになるべく育てられ、稚児の戯では名だたる術者の子弟と渡り合ったとはいえ、父も自分も見た事すらない山神だか化け物だかが子供をさらうなんて迷信は全面的に受け入れがたい。
しかしこれだけは言える。
相手が生きた人間だろうと人知をこえた山神だろうと関係ない。玄はこの十年みどりの生存を信じ、彼女を家族のもとに帰す事だけを望み、愛車を駆って奔走してきた。
なのにみどりは頑として動かず、地面に縫い付けられたように突っ立っている。
「縣!」
痺れを切らし駆け出す玄の傍ら、茶倉が式札を飛ばす。
途中で実体を持った式神が着物の袖を翻し、みどりの前に降り立ち、口を開く。
『叶うとええね』
縣と呼ばれた式神は幼い茶倉の姿をしていた。
十五年間引きずっていた後悔と罪悪感がぶり返し、足が鈍る。
みどりと言葉を交わした縣がしおらしく俯く頭をなで、少女の心中を代弁する。
『帰りたないて』
「は?なんでだよ、家族に会いたくねえのか!」
『権現さまや友達と一緒におる方がええ言うとる』
正が結界を解く。
「どういうことだみどりちゃん、里に下りたくない事情があるのか?おじさんたちに話してくれ、力になるから」
「妙やと思たんや」
「何がだよ」
「気付かんか昔の伝承。娘を取り戻したい親父は、なんで権現さまの話を山伏に持ってったんやろな」
質問の意図がわからず当惑する玄を一瞥、物分かりの悪さに呆れて続ける。
「古来より荒神や祟り神を鎮めるんは神職、亡魂や化け物を宥めるんは坊主て相場が決まっとる。権現は山神、せやったらフツー神主を頼るんちゃうか」
「あ……」
言われてみれば確かにそうだ。
「たまたま近くにいなかっただけかもしんねーじゃん」
「鎮守の社建てはったのに?どー考えてもわざわざ山登て山伏頼るより、里を治める神主に泣き付いた方が早いやろ」
「要点を言え」
「わざわざ山伏担ぎ出したんには後ろ暗い事情がある」
一拍おき、みどりの後ろに無表情に犇めく稚児たちを見据える。
「魔祓いの対象は権現さまやない。大人の事情で山にやられた稚児の霊や」
修験者は加持祈祷や魔祓いを行い、さまよえる亡魂を鎮め、人々に安寧をもたらす存在。
昔話の百姓が山伏を頼ったのは、娘をさらった犯人が権現にあらず、稚児たちの死霊と知っていたから。
「間引きか……」
正が苦玉でも飲んだように唸り、茶倉が淡々と付け足す。
「稚児行列は背の順、明かり持ちは前に一人。二十人の子供がぞろぞろ行くんや、一番後ろは当然足元暗ゥて出遅れるわな。全部神隠しの仕込みや。付け加えるなら、並びにも意味がある」
「まさか」
「稚児は全員七歳、一番のちびが後ろに来る。発育が悪い子を殿に回す、って言い方もできるな」
「さらってもらいやすいように……か?」
「消えてもわからんように。農村じゃ子供も貴重な働き手、負担になるだけの役立たずはいらん。ろくに食わせてもらえん子沢山の末っ子や継子を後ろに付けたんかもしれん」
行列の稚児を七歳に限定し、その中で最も発育が遅い子を振るい落とす。
「神隠しがホンマに権現の仕業かどうかも怪しいで。後ろは真っ暗、ガキ一人かっさらったかてわからん」
「神主が生贄の儀にかこ付けた間引きを担ってたら」
「自分を殺したヤツの言うこと聞くわけないもんな、そら山伏頼るわ」
七ツまでは神の子。
育てるのが難しければお返しが許される。
「前々回の神隠しは明治・大正やろ、確か。村が豊かになって口減らしせんでようなったんちゃうか」
「じゃあ権現さまは」
稚児たちが輪となってみどりを取り囲み、口々に言い募る。
「権現さまは悪くない」
「あたしたちを助けてくれた」
「行くとこないならお山にいていいって言ってくれたの」
「うちに帰ったらおとうに叩かれる……」
「あたしがいるとおっかあが泣くの」
「おらは足が悪くて畑にでれないんだ」
「お山はいい所」
「だからここにいるの」
「権現さまと一緒がいい」
「食べ物もらえないでひもじい思いせずにすむ」
「誰もおいらを叩かない、邪魔にしない」
「帰ってくるなって言われたの」
「村の為、みんなの為だっておっとうが泣いてたの」
「新しいおっかあは嫌いだ、おらにご飯くんないんだ。弟ばっかり可愛がる」
「根っこじゃ腹がふくれねえ」
神隠しを権現様の仕業にしてしまえば。
消えた子供たちは権現様に食われたことにしてしまえば、村人たちは平和に暮らせる。
あるいは村人たちの大半が、権現さまの仕業か人の犯行か判別付かずにいたのかもしれない。
「稚児行列は大人の欺瞞、間引きの口実」
山に返す稚児を見繕っていたのは権現様にあらず、もっとおぞましい何か。
「そんな……」
陰惨な真実に戦慄く拳を握り込む玄。
正が苦渋の面持ちで述懐する。
「ご先祖様の手記には『百姓の直訴を汲み、権現に陳情した』としか書いてねえ。調伏したってのは後世の勝手な解釈、後付けだ」
「退治されたんちゃうなら令和の世に返り咲くのは十分ありえるな」
子供たちの視線が敵愾心に尖る。
「権現さまをいじめにきたの?」
「許さない」
「帰って」
「帰れ」
「ここがおらのうちだ」
「みながおらの家族だ」
「かわいそうな子はお山においで」
「桃もあるよ」
「柿もあるよ」
「お腹一杯になれるよ」
「みんなお山に連れてくるよ」
「大人はいらない」
「きらい」
「あっちいけ」
圧倒的な悪意にさらされ、なお逆境に負けじと顔を上げ、信念を宿す言霊を振り絞るように玄が叫ぶ。
「練の言うことは本当なのか?そうなら許せとは言わねえ、村人恨んで当たり前だ。でもいじめにきたんじゃねえことだけは信じてくれ」
「待て玄」
父の腕を荒っぽく振りほどき、子供たちの群れに歩み寄り、手前の少女の肩を掴んで説得する。
「権現に会わせてくれ。話がしたい。お前たちを助けたいんだ」
友人を救えなかった自責の念を使命感に代え、嘘偽りない本心を伝える玄を見上げ、天冠を付けた少女が無感動に返す。
「もうおそい」
刹那、腕の中の稚児が崩れた。
「!ッ、」
「阿呆!」
肉が腐り落ちて蛆が沸き、腐敗が進んで骸骨に変化する。骸骨になりはてた稚児が玄にしがみ付いて押し倒す。
「うおおおっ!」
正が気合一閃、錫杖を振り上げる。
「よせ親父!」
自分を襲った死霊を庇い、素手で錫杖の打突を受ける。
「ぐっ、あ」
骨が軋む激痛に悶える玄。
正が極限まで目を剥く。
「何の真似だ玄」
「コイツらは、悪く、ねえ。手出しすんな」
玄が身を挺し助けた少女の骨格を肉と皮膚が覆い、もとの愛らしい顔を取り戻す。
「もうやだ」
顔を上げた茶倉の視線の先、みどりが両耳を塞いでしゃがみこむ。
「なんで余計なことするの、ほっといて。おむかえになんて来ないで、おうちなんか帰りたくない」
「どうして帰りたくないんだ。受け入れてもらえるか怖いのか」
首を横に振って泣きじゃくるみどりの方へ、顔色の悪い玄が這いずっていく。
「大丈夫。一緒に付いてってやる」
あの時言えなかった言葉を、今。
「兄ちゃんは味方だから」
みどりの涙を拭い不器用に笑む玄の前に、殺気を纏った颶風が回り込む。
「権現!」
全身金色に光る獣が雄々しく咆哮し、地面を蹴って跳躍する。
茶倉が矢継ぎ早に飛ばす式札を紙一重で躱し、正が轟と振り抜く錫杖を跳び越えかいくぐり、木の幹を蹴って空を舞い、全方位から奇襲を仕掛ける。
「ぐっ!」
「大丈夫かおっさん!」
怒り荒ぶる権現が正の袈裟を引き裂き、一本下駄に慣れない茶倉がたたらを踏む。
「くそっ」
首から外した念珠を揉みしだき、丹田で闘気を練り上げる。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カン・マン、帰命し奉るあまねき諸金剛尊よ、暴悪なる大忿怒尊よ、粉砕したまえ」
玄を中心に地揺れと地鳴りが起こり、今まさに彼に飛びかからんとした権現が弾け飛ぶ。
「さすがは稚児の戯優勝候補筆頭の片割れ」
「絶体絶命のピンチでも憎まれ口健在で安心したぜ」
「無理すな、腕折れとるやん」
「ひび入っただけだ」
「嘘こけ、すごい汗やで」
「余裕」
稚児の戯に選ばれたのは日本全国から集められた術者の子弟たち。煤祓玄は成願寺の宗主・冥安の肝煎りとして送り込まれ、最後まで勝ち残った実力の持ち主である。
「おい権現、俺の言葉わかるか?神隠しはお前がやったんじゃないのか、本当に子供たちを守ってたのか」
権現は答えない。
前傾姿勢をとり、威嚇するように玄を睨んでいる。
稚児たちを背に庇い、唸り続ける獣を見て、言葉よりも雄弁な真実を悟った玄が頭を下げる。
「そっか。すまねえ、許してくれ」
沈黙を守り続ける権現をまっすぐ見据え、縋るようにせがむ。
「教えてくれ、なんで吉田みどりをさらった。里に戻せない理由があるのか」
みどりは答えない。権現のたてがみにギュッと抱き付き、小さく震えるのみ。
「~~頼むから答えてくれよ!」
ああ畜生、あの時と同じだ。
もっと頼ってくれたら、俺を信じて全部話してくれたら力になれたのに。
『余計なことすな。迷惑やねん』
お前が頼ってくれねえから、他の奴を頼るしかなかったのに。
十年かかって漸く見付けた少女に無視され、衝動的に声を荒げた玄を、今度こそ敵と見なして権現が吠え猛る。
本能的な危険を感じ、半ば力ずくで正の錫杖を奪いとり、十二の遊環を通した先端を権現に突き付ける。
「そっちがその気なら全力で行かせてもらうぜ!」
亡き祖父に叩き込まれた棒術の極意を反芻、体前に構えた錫杖を滑らかに旋回させ、跳ぶ。
「先走んなや早漏!」
「臨兵闘者皆陣烈在前!」
玄が猛然と繰り出す打突に加勢せんと正が九字を切り、茶倉が惜しみなく式札をばら撒く。
みどりを咥えて背に乗せた権現が奮い立ち、その咆哮に応じて山が鳴動する。
「逃がすな!」
主に命じられた縣が両手を突き出し、光り輝く五芒星の結界で権現を食い止める。
しかし力で押され、足裏でずるずる地を削り、遂には元の式札に戻って舞い落ちていく。
権現の視線が茶倉に向いた瞬間、踵を返す。
力一杯茶倉を突き飛ばし、横に寝かせた錫杖に権現の|顎《あぎと》を噛ます。
「~~~~~~~~~~~~ぁッ、が」
腕の骨に入ったひびが広がり、瞼の裏が真っ赤に染まる。全身の毛穴が開き、脂汗がしとどに吹き出す。
奥歯に力をこめて踏ん張り、軋む腕で異形を受け止める天敵を、後方に尻餅付いた茶倉が仰ぐ。
「怪我ねえか」
「なんで」
放心状態の茶倉が落とした呟きを聞き咎め、ほんの一瞬首をねじって振り返り、寂しげに微笑む。
「ごめんな」
やっと言えた。
長かった。
とても。
目の前の敵を忘れ、初恋の男に心を移したそのたった一瞬の隙が煤祓玄の命取りとなった。
存外しぶとい敵との力比べに飽きたのか、権現が剛毛の生えた前脚を一閃。
直後に真っ赤な血がしぶき、革ジャンを羽織った青年が後ろ向きに倒れ込む。
「「玄!」」
正と茶倉の声が重なり響き、|金色《こんじき》にきらめく遊輪がシャンと音たて、錫杖が地面で弾む。
父の腕に抱き止められた玄が息を荒げ、手探りで茶倉の腕を掴む。
「みどりと権現は?」
「逃げてもた。他のガキも一緒に」
「そ、か」
縣の式札を回収した茶倉が、苦々しげに顔を歪める。
「余計なことすな。迷惑やねん」
左腕と右足を真っ赤に染めた玄が虚を突かれたように固まり、乾いた声で笑いだす。
「はは」
「何がおかしい?」
「十五年前と同じセリフ」
「よお覚えてるな」
「忘れねえよ。絶対」
茶倉がきまり悪げに目を伏せ、ブランド物のハンカチを傷口に巻いて止血を施す。
「っ、キツ」
「わざとや。救急車……電波入らんか、寺まで戻らな」
激痛と高熱で頭が茹だる。思いのほか出血が多い。
「おい目ェ瞑んな、寝たら死ぬぞ!」
「雪山か。ええぞもっとやれ」
正が膝枕に寝かせた息子に往復ビンタをくれ、スマホを持った茶倉が突っ込む。
権現の消失に伴い、錦絵を巻き直すように植物相が元に戻っていく。
木々の合間に覗く空が平凡な青さを回復したのを見届け、玄の意識は溶暗した。
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