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二十三話
稚児行列の数刻前、茶倉は成願寺から持ち出した魔祓いの弓を携え十江山中腹の獣道を歩いていた。
『こっち』
半霊体には足場の悪さも関係ないのか、十メートルほど先行した縣が無表情に木立の奥を指す。
前夜、煤祓父子と雁首揃え打ち合わせをした。
正は茶倉ひとりを山に送り込む作戦に難色を示したものの、式神を伴うから大丈夫、何かあればすぐ知らせると言いくるめ、玄と共に神社の見張りに就かせた。
実力では名実ともに茶倉が最強。玄の下剋上が叶い天童の優位が覆らない限り、主導権は自分にある。
縣に道案内を任せて森を進みながら、玄に浴びせた台詞とその後の軋轢を回想する。
『玄くんのちんぽ狂っとるね』
『小便たれは連れてけん。ま、そういうこっちゃ』
己の決断を悔いてはない。あの場はああするのが最善の策、玄を突き放し心を折るのが正解だった。
権現は強く恐ろしい山神、手負いが挑んだところで勝算はない。情にほだされ同行を許しても足手まといになり下がるのは目に見えている。
故に尊厳を踏み躙る暴言を放ち、自分を憎むように仕向けた。
計算高い画策は見事に実を結び、人生最大の汚点を暴かれた玄はすっかり萎縮し、茶倉と口を利くのはおろか目を合わせるのさえ避けはじめた。
これでいい。全て望んだとおりになった。
あとは首尾よく権現を担ぎ出すだけ―
「やっとおでましかい」
唐突に濃霧が揺蕩い、縣が指さす木立の奥から稚児を率いた権現が姿を現す。
『去れ人よ。お前に用はない』
霊験を帯びた厳かな声が殷々と脳裏に響く。
「随分な言い草やん。俺とも遊んだってや」
『邪魔をするな。我はただ愛し子たちと静かに暮らしたいだけだ』
稚児たちが権現の毛皮に抱き付き、怯えと警戒のまじった視線を投げてくる。
茶倉は落ち着き払って口を開く。
「話し合いに来た。吉田みどりはおるか」
子供たちが顔を見合わす。数秒後、後列に控えたみどりがためらいがちに歩み出る。
「結論から言うで。お前のおとん、娘を神隠しされた腹いせに他のガキ刺して回る気や」
みどりの顔が強張り、茶倉が一歩間合いを詰める。
「娘は変質者に誘拐されたて吉田は思い込んどる。せやのに行列再開した村人を逆恨みして、かくなる上はどえらいことしでかして祭りをブチ壊す魂胆や。で、お前らの出番」
権現の次にみどりを指す。
「お前に起きたことは知っとる。せやさかいうちに帰れとは言わん、権現と暮らしたいならそうせえ。けどな、ケジメは付けなあかん」
一人と一匹に直訴する眼差しが堅固な意志を宿す。
「他のガキは親の都合で厄介払いされたんかもしれん。お前はちゃうやろみどり、吉田は稚児行列の仕掛けを知らんかった。心の準備できんまんま不意打ちでさらわれたんじゃ諦め付かんで拗らすわな」
動揺著しいみどりをひたと見据える。
「縁切りたいなら逃げてうやむやにすな、きっちり引導渡してこい」
「やだ……」
弱々しく首を振ってあとずさり、権現の腹に顔を埋める。
「会いたくない」
「大事なこっちゃ」
「助けて権現様」
「吉田を止められるのはお前だけやみどり。俺と一緒に」
じれて手をさしのべるや血がしぶく。権現の爪が茶倉の腕を切り裂いたのだ。
『くどい。行かぬと言っている』
「保護者同伴でも駄目か」
不敵な笑顔で弓を構える。
「上等。わからせたる」
死闘の火蓋が切られた。
縣が印を組んで|呪《かしり》を飛ばすも権現は寸手で躱し、木を蹴って高く跳躍する。
すかさず踏み構え弓を引くも、想定を上回る動きの速さに狙いがぶれ、残像を射た矢が木や地面に突き刺さる。
「みどりが心配なら一緒に来い。自慢の牙と爪で子供を守ったれ」
『里の者がどうなろうと関係ない』
「ガキが大勢死んでもか」
権現の瞳に動揺が走るのを見逃さず、痛む腕で矢を番え、ギリギリと引き絞る。
「可愛いのは自分の子供だけ、あとは知ったこっちゃないか。案外薄情やな」
権現が強靭な前脚で木を薙ぎ払い岩を砕く。そこへ茶倉の力を宿す矢が音速で飛来し胴を掠める。
「権現さま!」
子供たちが悲鳴を上げる中、牙を剥いて唸る権現を静かに諭す。
「アイツ、人殺しの練習しとった。稚児行列にでる子供を殺す気や」
『関係ない』
「お前の為におっぱじめた祭りやろ」
『村の連中が勝手にしたことだ』
「数百年行列見守ってきたんやろ?稚児を守るんが役目ちゃうんか、途中で投げ出すな」
血が滴る片腕をぶら下げ、無防備に歩み寄り、権現の顔に触れて呟く。
「ジブン偉い神さまなんやろ。十江村を守れとは言わん、大人の割食わされるガキを守ってくれ」
茶倉と対峙した権現は、千里眼で男の過去を垣間見た。
稚児の戯は後見人と稚児の癒着を禁じていた。
玄の場合正式な後見人は祖父の冥安であるからして、食事の支度や風呂焚き、および洗濯物回収の用向きで出入りする詩織と交わす、日に数分程度の立ち話は黙認される。
そういえば聞こえはいいが、呪術に疎い一般人が息子を唆すことはなかろうと軽んじられていたのだ。
生来働き者で気立てが良い詩織は舅が命じた子弟の世話をよくこなした。
その日も山盛りの洗濯籠を持ち、境内を横切っていく詩織を見咎め、小走りに玄が駆け寄る。
『また……運ぶ時は声かけろって言ったろ』
『大丈夫よすぐそこだもの』
『よっと、』
半ば強引に洗濯籠を奪い、少しよろけて抱え直す。
『いい加減宿坊に洗濯機おけよ』
『そうねえ、正さんにドラム式のヤツおねだりしてみようかしら。だけど山の上まで配達してもらうの悪いわねえ、運送屋さんのトラック入れないし』
『親父にやらせりゃいいじゃん、体力ありあまってんだし』
詩織がおっとりした調子で笑い、玄があきれ顔で肩を竦める。
茶倉は井戸端に蹲り、他愛ない親子のやりとりを盗み見ていた。
『どうしたの練くん。それ浴衣?』
めざとい指摘に赤面し、びしょ濡れの浴衣を後ろに隠す。
『籠に入れといてくれたらおばさんが洗うからそんなことしなくていいのよ』
『自分のことは自分でしろておばあ様に言われたから』
きまり悪げに俯く。
浴衣を手洗いしている理由は昨夜不始末をしでかしたから。汚した着物を見せるのは抵抗を感じる。相手が詩織なら尚更。
惨めさと恥ずかしさにいたたまれず唇を噛む茶倉に対し、思いがけない行動をとる。
『小さいのに偉いわねえ』
頭をなでられた。
『あの……くすぐったい、です』
不浄な残滓が毛髪一本一本に至るまで浸透し、丁寧に髪を梳く憧れの人まで毒してしまいそうな妄想が育ち、本能的な忌避感が働く。
もじもじする茶倉の様子を思春期特有の含羞ないし遠慮と解釈したか、赤らんだ顔を微笑ましげに眺め、正面にしゃがんで耳打ち。
『人に甘えず自分でやろうとするのは立派だけど、辛い時は誰かを頼っていいのよ』
『でもおばあ様が』
『練くんのおばあ様が許さなくてもおばちゃんが許したげる。練くんはとっても頑張り屋さんだもの、少し位息抜きしたってバチ当たらないわ』
黒髪を撫で付け寝癖を直し、悪戯っぽく人さし指を立てる。
『玄ね、練くんが来てから急にしっかりしてきたの。ちょっぴりお兄さんになったっていうのかな……前はよく寝坊しておじいちゃんに怒られてたのに。練くんのおかげだわ、ありがとうね。これからも玄のお友達でいてちょうだい』
優しい手の感触に孤独が氷解し、母性的な微笑みがぬくもりを灯す。
『何話してんだよお袋』
『秘密』
『ずりーぞ教えろ』
『やあねえやきもち?』
『違うって!』
『うちの馬鹿息子とずーっと仲良くしてくれるようにってお願いしたのよ』
『~やめろよそーゆーの、こっぱずかしい』
『ってアンタ、どうしたのこの擦り傷。また喧嘩?』
『向こうから突っかかってきたんだよ』
『話し合いで解決しなさい』
夏の陽射しの下でふざける親子に焦点を結んだ刹那、与えられた優しさが溶かした分だけ喪失感がこみ上げ、羨望と憧憬が綯い交ぜになった情動に胸が疼き、凍り付いた瞳が|水面《みなも》に沈む。
哀しくもないのに涙が止まらないのが不思議でたまらず、麻痺した心が現実と乖離する。
もうおそい、手遅れや。
僕はきゅうせんさまに食べられてもた。
でも玄は。
玄くんやったら、まだ間に合うんちゃうか。
楽しげにふざける親子の姿を網膜に焼き付け、自分が幸せでいられた過ぎ去りし日々を懐かしむ。
きゅうせん様の思惑は神のみぞ知る。
今は苗床として茶倉を耕すのに夢中だが、周囲の霊力を吸い上げ活発化している現状を踏まえれば、隣に寝ている玄や他の稚児を襲うことも十分あり得る。
ほな、僕が玄くんを守ったらんと。
ずっと友達でおるておばちゃんと約束したんや。
僕のおとんとおかんはもうおらんけど、玄くんには優しいおかんがおる。おとんとじいちゃんもおる。
玄くんがきゅうせん様にいじめられたら、おばちゃんが哀しむ。
僕はもうええ。
これでええ。
きゅうせん様に中かき回されるんは死ぬほど苦しいけど、頑張ってガマンする。
僕にやさしゅうしてくれた玄くんや大好きなおばちゃんが泣くより、そっちのがずっとマシや。
玄くんをきゅうせん様の餌食なんかにさせん。絶対に。
あどけない頬を彫り抜き、点々と滴る雫が地面を濡らす。
蝉しぐれに蒸す空の下、夏の盛りの太陽が入道雲の輪郭をくっきり刳り貫いて傾き、子供時代に黙祷を捧げる少年の影を伸ばす。
声すら上げず瞬きもせず、ただただ忘我の涙を流す茶倉を案じ、逆光に塗り潰された詩織と玄が駆けてくる。
『だいじょぶ練くん、目にゴミ入ったの』
『ちゃうねん……』
『玄、吸い出してあげなさい』
『口で!?』
『なに驚いてんの、小さい頃よくしてあげたでしょ』
『ホンマに大丈夫、気にせんといて』
跪いた詩織がエプロンで茶倉の頬を擦り、玄が膝に手を付いて覗き込む。
『いじめられたらすぐ言え、とっちめてやる』
『……うん』
『指きりげんまん嘘吐いたら針千本のーます、指切った』
玄くんはアホや。仕返しできるもんならとっくにしとる。どっちが守られとるか知りもせんで、ホンマめでたい。
愛された子供特有の天真爛漫さと鈍感さに苛立ち、眩しい笑顔で契る玄にざわめく感情を折り畳み、卑屈な笑顔を返す。
権現が覗けたのはそこまでだ。
直後、地面を穿って飛び出た触手の群れが権現の四肢を縛す。
「お人好しのアイツのこっちゃ、わざと触れ回ったんじゃないこと位お見通しじゃ。自分の手に余るさかい助っ人呼んだんやろ」
山神の千里眼を霊圧で跳ね返し、スーツの胸元にぶら下げた念珠を左腕に巻き直し、茶倉が堂々啖呵を切る。
「天童の底力思い知れ」
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