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二十七話

凄まじい爆音が炸裂し、玲瓏と光る月を背に、ハーレイダビットソンが岩肌を駆け上がった。 「練!」 「玄!」 鉄馬に跨る山伏の腕を反射的に掴み返す。すかさず引っ張り上げて後ろに乗せ、盛大にエンジンを吹かす。 「怪我は?神社におるはず」 「こまけえ話はあとだ、助太刀にきた!」 「頼んどらんし!」 「振り落とされねえようにしっかり掴まっとけ、喋ったら舌噛むぞ」 茶倉が革ジャンの背中に抱き付いたのを確認後、玄が鮮やかなハンドル捌きで森を駆け権現たちを引き離す。 「バイクは山に入れない言うとったやん」 「入れねえこたあねえ、木や岩に擦ってキズモノになんのが嫌だから置いてきただけだ」 「中に誰か入っとる?」 「親父が下ろしたご先祖様。権現とタイマン張った奴」 ハーレーダビットソンが猛々しく吠え猛り、夜の森を疾駆する。玄の操縦技術は見事なもので、起伏の激しい獣道を縦横無尽に走破し、岩や幹に前輪をあて器用に方向転換する。 「なんで懲りんねんお前は!」 ワックス臭い革ジャンに顔を埋めて嘆けば、ハンドルを握り締めた玄が前を向いたまま怒鳴る。 「びびって小便たれたからなんだってんだ、布団の中でおっ勃てたほうがよっぽど恥ずかしいぜ」 あの時言えなかった本音を、今。 逆風に負けじと顔を上げ、正面の虚空を睨み据え、エンジン全開で叫ぶ。 「俺はお前が好きだ!!」 石を噛んで大きくバウンドしたバイクを御し、タイヤで地面を削って減速し、背負った錫杖を構える。 「好きなヤツが命がけでタイマン張んのにほっとけっか」 「アホか」 「アホでいい。小便たれの玄くんは卒業だ」 告白の余韻も冷めやらぬ中、アクセルを踏んで加速し錫杖をぶん回す。 「出合え畜生ども、煤祓玄と愛馬のお通りだ!」 一直線に突っ込むバイクの上、息継ぐ間もなく襲来する猿や鳥を錫杖で打ちのめし立ち塞がった熊を轢く。 一周して元の場所に戻って来れば、縣が明かりの消えたスマホのそばに佇んでいた。 「よこし」 式神からスマホをひったくり背広にINしたのち、玄に断ってバイクから降り立ち、権現と対峙する。 最初に口火を切ったのは玄だ。権現の傍らのみどりに視線を定め、誠実な表情でかきくどく。 「ごめんみどり、お前の文集読んだ」 「ッ!」 「勝手に部屋に入った事、引き出し開けた事は謝る。けど俺、どうしてもひっかかってんだ」 みどりを見据える玄の目はどこまでもまっすぐで、切実な色をしていた。 「作文に書いてあったよな、将来看護師さんになりたいって。忘れちまったか?」 「……」 「お前の夢だよ。思い出せ。病気のお袋さんを世話する看護師さんを見て、ああなりたいって憧れたんだろ」 玄はみどりと同じ地獄を体験してない。みどりの気持ちを理解しているかと問われたら否である。 それでも伝えたいことがある。 「ぶっちゃけお前の気持ちはわかんねえ、わかったふりもできねえ。親父と暮らすよか権現と一緒の方が幸せだって言われたら否定できねえし、無理矢理こっちに戻すのが正しいかどうか自信ねえ。けど、さ。あの作文読んで思ったんだよ。お前が看護師に憧れた気持ちは本物だろ?大きくなったらなりたいもんがあって、その為に頑張って勉強するって、あの気持ちは絶対嘘じゃねーだろ」 玄が悔しげに唇を噛み、拳を握りこむ。 「ここにいたら叶わねーじゃん、それ」 失踪当時の吉田みどりは看護師を目指していた。神隠しに遭いさえしなければ、その夢は叶ったかもしれない。 「辛いことから逃げて逃げ続けて、そんで逃げ切るのが悪いたあ言わねえよ。お前はそんだけ辛い思いしたんだ、逃げたくなって当然だ。でもさ、ここにいたらなんも変わんねーじゃん。穏やかで安らかで楽しくて、時が止まった山ん中でずうっと子供のまんま……幸せかもしんねーけど、そんだけじゃん」 説教できる立場でないのは痛感している。単なる想像だけで生き地獄を追体験した気になるのは思い上がりも甚だしい。 「みどり、お前はそれでいいのか」 一歩踏み出す。 「夢、捨てちまっていいのかよ」 また一歩。 玄の説得でみどりの顔に迷いが生じ、権現と二人を忙しく見比べる。 「だ、だってお父さんが……」 「父親は関係ねえ、お前がどうしたいかだ。親父が怖ぇなら俺が守ってやる、お前が立派な看護師さんになるまでそばにいるって約束する」 「むりだよ」 「決め付けんな」 十年経ってもまだ父親に怯え続ける少女に向き合い、己の過ちを告白する。 「俺、さ。十五年前ダチを裏切ったんだ。弟みてえに思ってたヤツだ。ずっと仲良くしたかったのに化けもんにびびって逃げ出した、その事をずっと後悔してる。お前はどうだみどり。親父と話し合えなんて言わねえ、言えるわけねえ。けどさ、クズ親父一人の為に人生ぶん投げるのはもったいなさすぎだって」 吉田みどりには未来があった。 夢があった。 青年と少女のやりとりを見守る権現の顔が悲哀を帯び、金色の毛皮がくすんでいく。 「しんどい時はもっと周りを頼っていいんだぜ」 嘗ての詩織と同じ言葉を口にし、詩織の面影を宿した顔で微笑む。 「山にいたけりゃそうしろ、ここは安全だ。でもよ、もしまだ看護師の夢を忘れてなかったら」 こないだお父さんにみどりはおとなになったらカメラマンかな、といわれました。わたしはかんごしさんになりたいと答えました。 「俺が力になる」 なぜかというとおかあさんのお世話をしていたかんごしさんがとてもやさしいひとだったので、わたしもかんごしさんになって、おおぜいのひとを助けたいなって思いました。 「ぶっちゃけ俺の人生は後悔だらけだ。十五年前はダチを救えず、十年前はお前を救えず、色んなヤツを見殺しにしてきた。同じ事はもうしねえ、助けてって言われたら必ず手を掴む」 そういうとおとうさんはちょっぴりさびしそうに笑って、みどりはいい子だからきっとかなうよ、おとうさんもおうえんするよ、と頭をなでてくれました。 「みどり」 久しぶりに名前を呼ばれた。 権現は稚児を差別しない。故に等しく「我の子」と呼ぶ。今、みどり自身さえ忘れかけていた名前を知らない青年が必死に呼ぶ。 「本当に?」 みどりは自分の名前が好きだった。大好きな母が付けてくれた名前を嫌いになるはずない。 十江村に移住を決めた時、母は身ごもっていた。 空き家の下見に訪れた際、麓を夫婦で散策した真由美は、山肌を染める美しい緑に感動し娘の名前を決めたのだった。 数年後。 抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け、病床で呼吸器を付けた母は、枕元にまだ幼い娘を招いて囁いた。 『みどりの名前にはもういっこ意味があるの』 『なあに?』 『|嬰児《みどりご》。日本の古い言葉で、若葉や新芽のように生命力にあふれた赤ちゃんの事をそういうの。お母さんとお父さんはみどりに元気に長生きしてほしくて、みどりって付けたのよ』 「権現さま、私」 『お母さん、わたし看護師さんになりたい』 『なれるわきっと』 「私……」 カメラを向けられるのが怖かった。お父さんに写真を撮られるのが嫌だった。 だけど本当の事言ったらお父さんがとっても哀しい顔するからジッと我慢した、我慢して我慢して我慢して我慢できなくなった頃に権現さまがきてくれた、みんなの仲間入りにしてくれた、私をお山の子にしてくれた。 『皆の夢は』 権現が透徹した達観を宿した瞳でぐるりを見回し、己に抱き付いた稚児たちに聞く。 『大きくなったら何になりたいか申してみよ』 唐突な問いに互いの顔を見合わせ、稚児たちが無邪気に答える。 『おらは百姓。おとうの畑を継いで耕すんだ、もっとずっとでっかくするんだ』 『庄屋のお嫁になりたかったなあ。綺麗なべべ着て贅沢して暮らすんだ』 『おらはお侍』 『馬鹿、百姓の子は百姓って決まってるべ。お侍にはなれねえよ』 『わかんねえだろ、頑張ればなれっかも』 『おらは江戸へ行く!』 『旅芸人の一座に入りてえなあ』 『海が見たい』 『富士山が見たい』 『おらはやや子がほしい、おんぶして抱っこしていっぱい可愛がるんだ』 稚児たちが年相応にあどけない顔で夢を語り合うさまを見届け、星が瞬く天を仰ぐ。 『我は間違っていたのか?』 大事に匿い育てた行為が、人としてあり得たかもしれない未来や人生を奪っていたら。 玄の言葉でそれを悟り、凪いだ天を見上げ、聡明な山神が自問する。 『親に疎まれた子に先はない、未来はないと決め付けて、山に連れてきたのは間違いだったのか?』 権現が思っているほど人は弱くない。この子たちの中には自分が余計な事をせずとも逞しく生き抜いて、夢を叶えた者がいたはずだ。 『我は、我こそ人を侮っていたのか』 苦悩する権現と玄のはざまに立ったみどりが、葛藤の表情で両者を見比べ、玄と指先を触れ合わせた瞬間― ―「みどりっっ!!」― 鬱蒼と生い茂った木立をかき分け、吉田卓が現れた。

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