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二十八話

『将来は田舎に引っ越したい。古民家で暮らすのよくない?今は過疎化で空き家が増えて安くなってるって不動産屋の友達に聞いたの、私たちでも頑張れば買えるんじゃないかな、たっくん』 都会育ちの真由美は田舎暮らしに憧れ、自然豊かな環境で子供を育てたいと望んだ。それには吉田も同意だ。 空気が汚れた都会はうんざり。田舎なら犯罪も起こらないだろうし、安心して子供を産み育てられる。 夫婦でよく話し合い、移住先は岩手県の十江村に決めた。真由美の友人に掘り出し物の古民家をお勧めされたのだ。 もとは子供がいない老夫婦が住んでいたのだが、妻が先に死に、旦那が施設に入ることが決まって持て余していたそうだ。 しばらくは平和な日々が過ぎた。 優しい妻と可愛い娘に囲まれ、近所の人たちと穏やかに交流していたこの頃が、吉田卓の人生において一番幸せな時期だったと断言できる。 十江村移住から数か月後、真由美の体調不良が続いた。市立病院で検査を受けた所、肺が真っ黒な影で覆われていた。診断結果は肺がん。 当時二十代で健康体だったぶん進みが早く、癌はあっというまに全身に転移した。 癌が判明した日は二人で泣いた。まだ小さいみどりは母の膝に抱っこされたまま、泣き崩れる二人を見比べきょとんとしていた。 『泣かないでたっくん。私、この子のためにも頑張るよ。最後まで諦めない』 『俺も全力でサポートする。まーちゃんがいない間みどりの面倒はちゃんと見るから安心してくれ』 しかし、現実は過酷だった。 真由美は十江村から車で二時間の市立病院に入院し、抗がん剤治療を受けることになった。吉田は家と職場と病院の往復に忙殺され、次第に余裕を奪われていく。 抗がん剤の副作用で真由美は衰弱していった。 夫の呼びかけにも殆ど反応を示さず、虚空を見据え朦朧としていることが増える。 毎日のように激しい嘔吐を繰り返し、大量に髪が抜けた。げっそり頬がこけた容貌は新婚当時とは別のようで、目の前でまどろんでいるのが誰かわからなくなる。 吉田はギリギリまで頑張った。 幼い子供の世話は大変だ。もとより子供が少ない十江村に保育園なんて気の利いた施設はない。 病院に行ってる間や仕事中はご近所さんに子守りを頼んでいたが、連日となると後ろめたさを覚える。「気にしてないわよ」と笑顔を返されるたび、罪悪感に苛まれた。だからこそ娘のみどりには大人の言うことをよく聞く素直ないい子であれと言って聞かせた。 普段のみどりは大人しく手のかからない子だったものの、見舞いに伴った際は母と別れるのを嫌がり、毎度の如くぐずって手を焼かせた。 当時の吉田は追い詰められていた。 転職先の人々は理解があり、妻の看病の傍らワンオペ育児に励む吉田を気遣ってくれたが、一人だけ定時上がりと早退が常態化すればやっぱり肩身が狭くなる。 抗がん剤の副作用で痩せ衰えた真由美。母と別れるのを嫌がってぐずるみどり。 『最後まで頑張る。今の私がみどりにしてあげられるのはこれだけだもの』 『病気に負けなかった、強くてかっこいいお母さんとして記憶に残りたい』 最後まで頑張れば引き分け。それが当時の真由美の口癖。 思えば負けず嫌いな女だった。みどりの名付けにした所で吉田はまりあを推したのに、みどりがいいと言って聞かなかった。 精神的にも肉体的にも限界まで追い詰められ、心神喪失状態に陥った吉田が、その顔面に枕を押し付けたとて誰も責められまい。 唯一にして最大の誤算はみどりに現場を目撃されたこと。寝ている間に犯行を済ませようとしたら、途中で起きてしまった。 物心付く前の幼児の証言にどれだけ信憑性が見込めるかはわからねど、口外されたら困る。 そして父と娘の二人暮らしが始まった。 十江村の人々はお節介だ。妻に先立たれた男やもめと幼い娘を気遣い、ことあるごとに差し入れにきてくれた。とはいえ、濃い味付けの煮物には早々に飽きた。独身時代によく食べていたチェーン店のピザが恋しい。遠江村にはファミレスなんて気の利いたものはもちろんない。 心の支えはみどりの存在だけ。成長に伴い、みどりはどんどん母に似てきた。 きっかけは何だったのか。幼稚園の年長さんの時か。風呂上がりに魔が差し、脱衣所に一眼レフを持ち込んだ。それからは毎日のように内緒の撮影会をした。吉田はみどりの体を丁寧に洗ってやった。 自分は真面目な男だ。若くして癌に倒れた妻を献身的に介護し、幼い娘を育てた。真由美の入院中も浮気はせず、アダルト動画を視聴しながら自分を慰めて我慢した。 だったら少し位報われたっていいじゃないか? 幸いみどりは大人の言うことをよく聞くいい子に育った。吉田が「お願い」すれば恥ずかしがりながらも写真を撮らせてくれたし、時にはそれ以上の事もさせてくれた。 これからも親子ふたり支え合って生きていくのが、吉田卓のささやかな願いだった。 十年前の稚児祭りの日までは。 あの日、最愛の娘が消えた。みどりの行方は杳として知れず、吉田は心を病んだ。 駅前でチラシを配っても無駄、ポスターを貼っても無駄、情報提供の報酬を約束しても手がかりはなし。 事件か誘拐かと大挙して騒ぎ立てたマスコミも、歳月の経過に比例して関心を失い、世間は完全にみどりの事を忘れ去った。 このままじゃいけない。 思い出させないと。 吉田は父親だ。みどりを忘れた事は片時もない。変質者に監禁されたのか?海外に売り飛ばされたのか?それとも…… 次々浮かぶ嫌な想像を振り払い、狂ったようにブログを更新する。記事に綴るのはみどりの無事を祈る心情と犯人への憎しみ。 ブログに想いを吐き出し濾過することで、吉田の精神は辛うじて均衡を保っていた。 ある朝戸口に置かれた回覧板を見て、それも終わった。十年ぶりに稚児行列を再開するというのだ。 みどりがまだ見付かってないのに? 許せない。絶対に。 吉田は実力行使に及んだ。駅前や村長宅に徹夜で座り込みし、拡声器で行列の中止を訴えた。 最初のうちこそ同情の目で見ていた村人たちが腫物扱いで避け始めても気にせず、十年前の悲劇を繰り返すな、行列再開の前に捜索隊を出せと主張し続けた。 なのに。 愚かな村人たちは吉田の意向に反し、予定通りに稚児行列を決行した。 そっちがその気ならこっちにも考えがある。 温厚な人間を自負する吉田とて、時には自分の手を汚さねばならない。 標的は稚児行列に参加する子供たち。 包丁を研いでいる時、胸に芽生えた殺意が暗い愉悦に変わった。 何も悪いことしてないのに俺だけ子供を失うなんて理不尽だ。お前らにも同じ苦しみを味あわせてやる。 計画は順調に運んだ。吉田は村長の許可を得、稚児行列のお目付け役となった。 村長以下運営委員会は吉田に対し負い目がある。そこに付け込んだ。彼等も身内が計画殺人を企んでいるとは思うまい。 全員が顔見知りのような狭い村で事前に身体検査などナンセンス。仮に申し込まれたら、被害者家族への誹謗中傷だと全力で抵抗する心算だった。 アイツさえ余計なことをしなければうまくいったのに。 吉田の計画は正義漢気取りの山伏の出現でだいなしになった。 稚児行列が出発する数分前、煤祓は本殿裏に吉田を呼び出し、凶器を渡せと迫った。 何故バレた? 咄嗟に包丁を抜き、腹を刺した。 「誰か早く救急車を!」 「しっかりしろ正さん!」 刃を抜いた瞬間血が噴き出す。これは助からない。煤祓はぐったり蹲り、朦朧と何かを呟いている。 「しお、り。げん」 力尽きて傾いだ体を蹴り飛ばし、神社の裏手の森に駆け込む。右手には血まみれの包丁、首にはストラップで繋いだ一眼レフカメラ。 「吉田はどこだ!」 「森に逃げたぞ!」 「警察に通報しろ、山狩りじゃあ!」 境内は騒然としていた。稚児たちがヒステリックに泣き喚き、親たちが必死にそれを宥める。 厳しい表情の顔役たちが殺気立って走り回り、篝火が不吉な兆しの如く爆ぜる。 土地勘では向こうに軍配が上がるが、吉田はまだ若い。足腰が弱った年寄りどもを全速力で引き離し、どんどん奥へ入っていく。 「はあっ、はあっ」 畜生、アイツさえいなけりゃうまくいったのに。どうしてみんな邪魔するんだ、僕はただみどりを取り戻したいだけなのに……。 もしこれが本当の神隠しなら、生贄を捧げれば権現は満足するはず。 僕が子供を捧げれば、みどりを無事に返してくれるはず。 「聞こえるか権現様、むさ苦しい山伏で恐縮だが確かに生贄を捧げたぞ、代わりにみどりを帰してくれ!」 どこにいるんだ僕のみどり。早く出ておいで。 この十年、ずっとお前を待っていた。 転居せず不便な村に留まった理由は、みどりの帰りを信じていたからに尽きる。 「みどり―――――――お父さんがむかえにきたぞ―――――――!」 だしぬけに空気が変質した。 神社の裏手の森は十江山に繋がっている。それは知っていたが、さすがに距離感が狂ってないか? 時空の歪みに踏み込んだ吉田の視線の先、奇妙な獣が蹲っている。そばには見慣れない子供たちと見知った男がふたり、驚愕の表情でこちらを見据えていた。 あそこにいるのは。 「あ……」 やっと会えた。 金色の獣の傍ら、稚児装束の少女が強張った顔であとずさる。 「わかるか、お父さんだ。忘れたなんて言わないよな?」 十年前に消えたみどりが何故変わらぬ姿でいるのか、再会の喜びが疑問を上回る。既に正気は失いかけていた。 脳裏で鳴り響く警鐘を無視し、地面に敷かれた小枝を踏み折り、胸元のカメラを掲げる。 「ほらカメラ。覚えてるだろ、よく撮ってあげたじゃないか」 「やだ……こないで……」 か細い声の拒絶に応じ、青年たちが行く手を遮る。 「通さへん」 「みどりに触んな」 「何のまねだ。どきなさい。あの獣が見えないのか、みどりが噛まれたらどうするんだ!」 「お前の方が危険やん」 「は?」 右手には血まみれの包丁、胸元には一眼レフカメラ。服と顔にも赤い染みが飛び散っていた。 「今のアンタ、どっからどー見ても立派な変質者やで」 茶倉とか言った青年の指摘に堪忍袋の緒が切れ、奇声を発して包丁を振り回す。 「うるせえなどけよ、みどりがそこにいるんだ、早く行かなきゃ逃げちゃうだろ!」 「なんでみどりをさがしとった」 「娘を心配して悪いか!」 「告げ口怖かったのか」 正が冷ややかな眼差しで本心を見抜き、錫杖で吉田の足元を押さえる。 「嫁さん殺したこと、言いふらされちゃ立場ねえもんな」 「違」 「ほな罪滅ぼしかい?自分のせいでみどりが消えたて認めとゥないあまり人のせいにして、見下げはてたやっちゃ」 「さっきからわけわかんないことを言うな、僕はみどりを愛してる、みどりだってきっとそうだ世界にたったふたりきりの家族なんだ!」 妻が死んだ時、真由美の分まで幸せにすると誓った。 「来なさいみどり!」 「行くなみどり!」 隙を突いて玄が突撃、力ずくで包丁を奪いにかかる。吉田は激しく暴れ狂い革ジャンとジーンズ切り裂く。 「こんな所で遊んでる場合か玄くん、正さんは腹を刺されて死んだぞ!父親の死に目にあえないで本当に立派な息子だな!」 玄が凍り付いた。 今だ。 「させん」 足元が突如として陥没し、瀑布の勢いで化け物が天を衝いた。

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