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二十九話
「うわあああああああああ!」
茶倉の牽制に腰を抜かす吉田の下半身に、革ジャンを血に染めた玄が死に物狂いでしがみ付く。
「どけっはなれろ!」
「みどりとガキども連れて逃げろ権現!」
玄の頭や顔に無我夢中で蹴りを入れ、往生際悪く地面を掴んで這いずり、もはや執念だけでみどりのもとへとにじり寄る。
「いい子だみどり、お父さんの所に来なさい!」
真っ赤な手がみどりの両足首を掴んだ瞬間、それは起きた。
十江山が震えた。
権現が頑強な顎を開き、金色の毛並みを剣山の如く逆立て、魂魄を振り絞るような咆哮を上げる。
茶倉と玄が辛うじて無事だったのは、咄嗟に両耳を塞いだから。
娘の両足を掴んだ吉田はそれができない。
音の波動が全身を駆け巡り、柔い粘膜が数十か所同時に破裂し、ぐるりと白目を剥く。
バツンと音たて破けた鼓膜から血が噴き出し、同時に鼻と口から血を吐き、吉田が沈黙する。
咆哮の余韻が引くのを待ち、痺れた耳をさすって動いた茶倉が、吉田の脈をとって呟く。
「……あかん。死んどる」
玄が絶句する。
「お父さん……」
みどりが糸が切れたようにへたりこみ、顔を覆って嗚咽する。
ただ一声で吉田の心臓を止めた権現はといえば、どこか切ない表情でみどりを見詰めていた。
『その子を頼む』
裾野に点々と明かりが灯る。山狩りの火だ。正を刺して山に逃げ込んだ吉田を追い、懐中電灯をひっさげた捜索隊がやってくる。
「頼むって」
『我はその子の父を殺した。共にはおれぬ』
「ちげえだろ、守ったんだろ!」
父親の死を犯人に告げられたショックも冷めやらぬまま、もどかしげに否定する玄を見据えてハッキリ宣言。
『どんな人でなしでも親は親、子の前で親を殺すは鬼畜の所業』
「お前が動かなきゃみどりは」
『目が覚めた』
不安げな稚児一人一人の顔をじっくり見渡し、心優しい山神が述懐する。
『今の世に我の出る幕はない。子を助けるのは神にあらず、人でなくばいけない』
「やだよお権現さま。もっとみんなといたい、私だけすてないで」
愛し子の懇願に小さく首を振り、涙が滴るあどけない頬をなめ回す。
『捨てるのではない。送り出すのだ』
他の稚児は実の親に捨てられたがみどりは事故。本来ここにいるべきではないとほのめかし、泥と葉っぱにまみれ、満身創痍の茶倉と玄を等分に見比べる。
『みどりを頼んだ』
「わかった」
同時に頷く青年たちに頭をたれて感謝を示す。再び顔を上げた時、権現は視た。
眼前に佇む山伏の青年は、嘗てまみえた男とよく似ていた。
強い意志を湛えたその目の奥、嘗て権現がさらった童女が少女になって山伏と寄り添い、腕の中の赤子をあやす。
『嗚呼』
山伏が少女の肩を抱き、赤子が手にした風車を吹いて回す。赤子がきゃきゃっとはしゃぎ、夫婦が幸せそうに顔を見合わせる。
権現は思い出した。
稚児たちが持っている風車や笛は親きょうだいが供養に手向けたものだ。
『そうか。添い遂げたのか』
権現は山伏の懇願に負け、娘を返した。
継母に虐められる少女の身を案じ、その将来を憂い、里に帰した判断を悔いた日もあった。
でも。
『よかった……』
お前を連れて行かなくてよかった。人として幸せを掴んでくれて、本当によかった。
玄もまた思い出す。幼い日、山で迷子に会った際に優しい獣に助けられたことを。
その獣は心細さにべそをかく玄を先導し、成願寺が見える所まで送り届けてくれたのだった。
「……なんで今頃……遅えよ」
悪い神様じゃねえって、最初っからわかってたのに。
「お前のせいやない。権現は不幸せな子どもにしか見えへんのや」
居場所がない子。帰り道を見失った子。寂しい子の前にだけ現れ、親代わりになってくれる神様。
「吉田は結界の綻びに紛れ込んだ。コイツの死は自業自得や。けどまあ俺に責任がないとは言わん、権現が万全の状態やったら結界かてちゃんと機能したはずや」
茶倉の声が届いているのかいないのか、玄は脱力しきって座り込んだまま立とうとしない。
「行くで。村の連中に説明せな」
「真実を話すのか」
「まさか。適当にごまかすわ」
「親父は……」
「あのおっさんが殺して死ぬタマかい、他人の言い分真に受けんな」
茶倉が玄の腕を掴んで引き立て、囁く。
「俺も謝らんと」
「え?」
「その怪我」
玄の腕と脚に顎をしゃくり、バツ悪げに付け足す。
「きゅうせん様呼ばんかった。召喚したら勝てたのに」
「どうして」
「乗っ取られんの嫌やねん」
あっさり言い放ったのち、「これでおあいこやぞ」とふてぶてしく開き直るのがいかにもらしい。
「待てよ、三人乗りは無茶か?」
あっけにとられた玄の背後、権現がみどりを咥えて背に乗せる。
『まかせろ。本物の稚児行列を見せてやる』
金色の毛並みが神々しい輝きを取り戻し、母の意を汲んだ稚児たちが整然と散開する。
権現を先頭に立て、男女二列に分かれて並んだ稚児が笛を吹き鳴らし、あるいは和太鼓を叩き、歌い踊り舞いながら山裾へ敷かれた光の道を下りていく。
「アレはなんだ?」
「夢か?幻か?」
「権現さま……まさか本当にいらしゃったとは」
山神の降臨を目の当たりにした村人たちが相次いで膝を折り、両手を合わせて拝み倒す。
稚児たちの足裏が触れたそばから新芽が萌えて花が咲き、周囲の木々が鮮やかに色付いていく。
威風堂々たる貫禄帯びて行列を率いる権現に、祭囃子を奏でる稚児たちが誇らしげに続く。
「俺たちもやるか」
茶倉が不敵な笑顔で目配せし、矢は番えずに弓を射る。
否、矢はあった。
鳴弦の儀で用いるのは霊力を練り上げた不可視の矢。
茶倉が夜空に放った矢は金色に光り輝き、十江山上空で音もなく爆ぜ散り、金箔のようにきらきら降り注ぐ。
玄は厳かに錫杖を振り、十二の遊輪の旋律で行列を寿ぎながら追随する。
『健やかで在れよ、みどり』
権現の声は茶倉たちにしか聞こえない。村人たちにはただの獣の咆哮として認識される。
土下座で迎える村人たちの前に着いた途端、みどりが気を失って倒れ込む。
「危ねえ!」
錫杖を投げ捨て駆け寄り、権現の背から落下した幼女を抱き止める。
刹那、奇跡が起きた。
みどりの髪が肩をこえ背中をこえ急激に伸びて広がり、体が妖艶な丸みを帯びて乳房と尻が膨らみ、十代後半の少女へと成長していく。
「な、ん!?」
「十年分の時間が流れたんや。他のガキどもやったら塵に帰っとる」
結界内に滞在するのが危険なのは時が停滞しているから。従って時間の感覚が狂い、長居すれば取り込まれる。
ふと気付けば権現や他の稚児たちは消え失せ、村人たちが途方に暮れた様子で蹲っていた。
「誰だその子は、ツンツルテンじゃないか」
「見んじゃねえスケベジジイ」
気絶したみどりに革ジャンを掛け、切羽詰まった調子で村長に食ってかかる。
「親父は無事なのか?」
「さっき救急車で運ばれた。今は手術中らしい」
「助かるのかよ!?」
「わからん……出血が多いから難しい所じゃの。吉田は?」
「あっちでぶっ倒れてる」
「一体何があった、さっきの獣が権現さまなのか?」
「吉田が死んだのは山神の祟り……」
「さあね、わけわかんねーこと喚いて包丁振り回してるうちに心臓止まっちまったんだ。だよな練」
みどりを背負った玄の言葉に頷き、茶倉が助け舟をだす。
「相当興奮してましたからね。心臓発作ですよ多分」
「この娘さんは?」
「森をフラフラしてる所を保護したんです。自殺未遂の家出少女かもしれません」
皆が覚えているのは七歳のみどり、目の前で眠っているのが十七歳のみどりだとは思うまい。
付け加えるなら、村人たちは権現の後光に目が眩んでその全体像をハッキリとは見ていなかった。
「とりあえず病院へ。その子もあとでちゃんと診てもらいなさい」
死体を確認に行く村長たちと離れ、並んで立ち尽くす茶倉と玄の間に弛緩した空気が漂った。
「終わったのか」
「まだやろ。喝入れにいけ」
村人の一人にみどりを預け、玄がヘルメットを装着する。後部シートの茶倉もヘルメットを被り、鍛え上げた胴にしっかり手を回す。
「飛ばすぞ」
「了解」
操縦桿を捻る。エンジンが唸る。正の無事を祈る気持ちと焦燥が錯綜し、アクセルを強く踏み込む。
煤祓正は全治三か月の重傷だった。
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