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第57話

「決まり。じゃあ、ホテル行こうっ」  明るい声をだした若い男が、スツールから立ち上がる。  苦笑した夏川が男の腰をエスコートするように抱き寄せている。  男の腰に触れている夏川の手を見た瞬間、朝霧の頭にカッと血が上った。  声をかけようか朝霧が迷ったのは一瞬だった。  気がついたら朝霧は立ち上がり、夏川のスーツの上着を掴んでいた。 「誰、このおじさん」  夏川に寄り添っている若い男の言葉で、朝霧の肩がびくりと揺れた。  せめて家で着替えをしてくるのだったと朝霧は己の唇を噛んだが、後の祭りだ。  ぐっと勇気を振り絞り、朝霧は顔を上げると、夏川と視線を合わせた。 「話が……あるんだ」 「話? 」  夏川の声には感情がうかがえなかった。  朝霧のなけなしの勇気が、底をつきそうになる。 「この前のこと謝りたくて」 「いまさら? 」 「遅いっていうのは分かっている」  必死に言い募る朝霧の手を夏川が払う。  朝霧は払われた己の手を見つめ、泣きそうになった。  こんな店の真ん中で、俺は一体何をしているのだろう。  店内の客たちの視線が徐々に朝霧に集まってくる。  面白そうな愁嘆場が見られると、皆、朝霧の不幸を期待して待っているのだ。  朝霧は今すぐ、走って店から出て行ってしまいたかった。 「みっともない」  笑いを含んだ若い男の声に、朝霧は余計打ちのめされた。  朝霧は奥歯をぐっと噛みしめると震える両足に力を込めた。  ダメだ。  俺はまだリョウに何一つ自分の気持ちを伝えられていない。  朝霧は再度、夏川のスーツを掴んだ。  また振り払われたらと恐ろしくて、朝霧は顔を上げることができなかった。 「聞いてくれ。俺はお前がゲイでないと知って、女性と家庭をつくったほうがいいと思った。いや、そうじゃないな。女性と家庭を作ることができるお前に、いつか捨てられてしまうんじゃないかと怖くなったんだ。ルーシーと話したお前が俺よりも女性に魅力を感じてしまうんじゃないかと勝手に決めつけて、なら俺も好きにしてやると、やけになって、あの日、男について行った。俺のやったことは本当に最低だったと思うし、今更謝っても遅いというのは分かっている。でも俺は……お前が好きだ」

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