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第56話
朝霧は『やどり木』の前に立ち、はたと気付いた。
いつもの癖で、『やどり木』に来てしまったが、今日夏川が『やどり木』にいる保証はない。
むしろ朝霧と顔を合わせたくないと考えているのならば、夏川はこの店に来たりはしないだろう。
ここに居なかったら、夏川の家まで行ってみよう。
以前のように部屋には入れてくれないだろうが、話だけでも聞いてもらおう。
そんな決意を抱きつつ、朝霧は扉を開けた。
探していた姿はカウンターにあった。
朝霧は安堵のあまり、そこにしゃがみこみそうになった。
網膜に焼きつけるみたいに朝霧はじっと夏川の整った横顔を見つめた。
「みーちゃん? 」
マスターの問いかけは恐る恐るという感じだった。
その時、初めて朝霧は自分の場違いな服装に気付いた。
会社用のやぼったい黒縁メガネに、安っぽいスーツ。
夏川と会って話すことばかりに気を取られ、朝霧は今、自分がどんな格好をしているかまで、気が回らなかった。
気付いた途端、朝霧は自分の見た目が恥ずかしくなり、赤い顔をして俯いたままカウンターまで早足で近づいた。
いつもの席に座るとすぐにマスターが、ギムレットを朝霧の前にだしてくれる。
「久しぶり。今日はいつもと雰囲気が違うのね」
マスターの言葉に朝霧はこほんと小さく咳をするだけに留めた。
だされたグラスに口を付けながら、朝霧は隣をちらと伺う。
朝霧の隣にはまだ大学生にも見える若い男が座っていた。
男は隣に座る夏川に何事か熱心に話しかけていた。
夏川は穏やかな表情で、相槌を打っていて、朝霧の方には少しも視線をむけなかった。
そんな2人を見ていると、朝霧の胸はざわついた。
もう夏川は隣の若い男と付き合っているのかもしれない。
俺の謝罪など不要で、新しい恋を始めているのかもしれない。
朝霧の思考はどんどんネガティブになっていき、夏川に話しかけるというここに来た目的すら、実行に移せないでいた。
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