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第5話

「太宰!」  中也は躊躇う事無く川の中へと飛び込んだ。直ぐに脚が川底に届かなくなれば両腕で掻き太宰の元へと近付いて行く。中也の声が訊こえて居るのか居ないのか、太宰は何ひとつ反応を表さない間々只川の中腹へと進んで行き、そして突然とぷんと沈み込み姿を消した。  太宰が力無く川の中へと沈み込んだのと、中也が太宰の腕を摑まえたのは殆ど同じ瞬間だった。若し中也の摑む手がほんの少し遅れたならば抗わぬ太宰は其の間々水流に流されて居たかも知れない。抗わないと云うのは便利な物で、中也は太宰の首に腕を掛け救助の要領で春先の冷え切った川の中から太宰を引き戻した。  普段ならば水の抵抗等大した問題にも為らない中也であっても、異能を無効化する能力者である太宰を水の中から引き揚げるのは一苦労だった。其れでも太宰よりは鍛え方の違う中也は、河川敷に上がると濡れた前髪を掻き上げ乍ら死体の様に動かない太宰へと視線を落とす。 「――手前、本当はもう記憶戻ってんだろ」  振り返れば違和感は幾つかあった。間違い無く今の太宰は記憶喪失では無いという事を確信して居る中也は此れでも未だ白を切り通すかと目を細めて胸元の煙草を探る。  一度川へ飛び込んだ事で大量の水を帯びた煙草は既に使い物に為らなくなっていたが、頭部を傳いぼたぼたと零れ落ちる水滴も気にせず中也は咥えた煙草に燐寸で火を灯そうと繰り返す。 「――――確かに、一部の記憶は初めの頃混乱為て居たのだよ」 「だろうな」  漸く認めた、と中也は煙草に火を付ける事を諦め駄目に為った箱ごと川の中へと投げ込む。あの仄暗い眸の色だけは演技だけでどうこうなる物では無い。  仰向けに転がる太宰はちらりと中也に目線を向けたかと思えば、突然鋭く目を細め青紫色の唇を小さく動かして振り絞る様に呟いた。 「――記憶を無くした振りを為ていれば、素直になれたのに」  其の言葉自身を太宰が中也に訊いて欲しかったもので在るのかは定かでは無いが、遮蔽物や妨害をする騒音も無い此の河川敷ではどんなに小さな太宰の声であっても聢りと中也の耳に届き、中也は其の言葉を訊くが早いか立ち上がり太宰の胸座を摑むと全身全霊の力を込めて太宰を川の中へと投げ込んだ。 「ぶッは、何すんの!?」  予想外に早く川面から顔を出した太宰は頭からぐっしょりと濡らした間々防波堤にしがみ付き川を揺蕩い乍ら抗議の声を挙げた。  中也は防波堤の上で屈み込み太宰の髪を摑んで見下ろす。奇しくも夕陽を背中に負う形と成れば中也の表情を窺う事は出来ず、太宰は注視し乍ら中也が何かしらの言葉を発するのを待った。 「素直だろうが憎たらしかろうが、手前は手前だろうが」  太宰も内心では素直に為れない事を申し訳無く思って居たのだと理解した中也だったが、そんな言葉のひとつやふたつで今更中也の中での太宰への気持ちが変わる筈も無かった。只態度には出さずとも其の事を太宰が引き摺って居たと知る事が出来た中也は、素直に誘いを掛ける依りも今の方がずっと善いと緩む口許を表情筋のみで必死に抑えて居た。 「記憶戻ってんなら、あの時の科白もう一度云ってみやがれ」  太宰が決して云わない言葉、冗談でも二度と中也の前では云わない言葉に中也は大きな興味を持って居た。今の太宰に云える訳が無いとも思って居たし、少しでも迷惑を掛けた事を詫びる気持ちが在るのならば今度こそは云うかも知れないという期待を併せ持ち乍ら、川面に揺蕩う太宰を中也は見下ろして居た。  勿論記憶を取り戻した太宰が容易に其の科白を口に出す訳も無く、何かを云いたそうな目線のみを中也に向けて居た。  ――云わなくても解ってよ。  そう云って居るのだろうと中也は解って居た。  春に為ったとはいえ此の時期の川は未だ冷たい。何度も入水自殺に失敗していれば寒さへの耐性は付いていそうなものだが、此れから遣る事も多いと考えた中也は自ら川へ投げ込んだ太宰を再び引き揚げる為片手を差し出す。  差し出された中也の手を訝しげに視る太宰だったが、そっと手を出せば中也は圧倒的腕力を使い片手一本で太宰を川の中から引き揚げた。其の勢いが余りにも強く、水の中から地上へと抵抗も変わった太宰の躰は咄嗟に前方へと蹌踉めく。其の太宰を支えた中也は前のめりとなった太宰の耳許へ此れ幸いと唇を寄せて囁く。 「手前が自分の口で云わねぇ限り譲らねェ」  今夜は屹度寝かせて貰えない、明日迄は記憶喪失と云う事で押し通そうと考えた太宰は一度限界迄息を止め、期待に目を輝かす愛しい恋人の耳許へ口吻と共に小さな言葉を告げる。 「――――」  太宰を絶対に逃げ切れない状況に追い込んで居た自覚はあった中也だったが、頼りない程の小さな声で告げられた其の言葉ひとつで心臓を強く鷲掴みにされた気がした。  其れがどれ程太宰にとっては口に出す事も憚られる言葉であったか知らぬ中也では無い。圧し潰されそうな羞恥心に耐え告げた其の言葉を無碍にする心算は始めから中也には無かった。摑んで居た指先を其の儘引き、指先にそっと口吻た。 「上等」

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