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第4話

「何時迄むくれてんだよ朴念仁」  記憶を喪った今の太宰では仕事の役には立たないと探偵社に休暇を云い渡された太宰が中也の部屋に居座ってから一週間弱。幸いな事に中也が居ない間勝手に家を出て行くと云った様な事は起こらなかったが、中也が何時視ても太宰は寝具の上で丸く為った間々用意して置いた食事にも手を付けない有様だった。  太宰が寝台を占領して居た為居間で寝る事を続けて居た中也だったが、寝入った深夜に時折太宰の気配を感じる事も多々在った。目を覚ませば当然居間に太宰の姿は無く、相変わらず寝台の上で蝸牛の様に丸く為った姿が在るだけだった。  一度外に出れば任務の都合上当日中に帰宅出来ない事も在る。記憶が在ろうが無かろうが太宰に料理をさせる事は自殺行為に等しいので食事の用意だけは為て行っていたものだが、其れすら手を付けない状況が続くと流石の中也でも不安には為って来る。  人間飲まず食わずには限界が在る。ただでさえ布団の中に籠城した太宰はほぼ全裸にも近い状態で、室温を管理しておかなければ体調を崩す可能性も十分に在った。  此の日は中也にとっても久々の休日で、朝食の用意を整えた中也は今日こそは太宰に食事を摂らせようと意気込んで居た。食事を摂らせた後で再度風呂へと放り込み頭の天辺から足の指先迄奇麗に洗って温めた後は、服を着せて今度こそちゃんと向き合って太宰と話しをしよう、中也はそう考えて居た。  記憶を喪って居る太宰が頼れるのは恋仲にある中也だけで、拒絶したあの日から真面に会話も出来て居ない。あの仄暗い眸を視た時に中也は気付かなければ為らなかった、太宰が何よりも純粋な状態で在った事に。  数日間飲まず食わずの状態で体力が持つ訳も無い。若し衰弱して居るならば首領である森や探偵社の与謝野に応援を求める可能性も必要だと考え乍ら、抵抗する力も残って居ないだろうと寝室に踏み込んだ中也は有無を云わさず太宰を包む布団に手を伸ばし不意討ちの如く剥ぎ取った。  ――然し、布団の中に在ったのは太宰の形に似せて丸められた毛布のみで、其処に太宰の姿は無かった。  やられた――と感じた次の瞬間、中也は二輪車の鍵を持って部屋を飛び出して居た。記憶の無い太宰が自ら出て行く事等考えて居た事が愚かで在ったと反省し乍ら地下駐車場へと赴いた中也は防護面の施錠もそこそこに追尾灯を流し走り始めた。  日常生活に支障は無い為交通事故等を恐れる必要は無かった。太宰が全ての記憶を喪って居るとするならば何処か遠くへと行ける訳も無い。公共交通機関を利用する可能性は非常に低く、何時間前に出て行ったかは解らないがただでさえ飲まず食わずの状態が続いた太宰の歩いて行ける距離はたかが知れて居た。  無意識に古巣へ戻ろうとするか、記憶を無くした後初めて視た探偵社へと向かったか、中也はそのどれとも違う気が為て居た。  太宰が記憶を喪って居たとしても、其の心の奥底に深く突き刺さって居る変わらぬ根底――法定速度を遥かに越えた速度で横濱の街を走り抜ける中也が辿り着いたのは落ちかけた夕陽が橙色に水面を照らす河川敷だった。  心臓の鼓動の様に激しく打ち続ける二輪車を其の場に放り投げ、中也は視える範囲の河川敷へと視線を凝らす。太宰が居ると為たならば此処以外に有り得ない、中也は不思議と確信に近い物を抱いて居た。  水光が捜索する中也の邪魔をする様に鋭い光を射して来る。まどろっこしい防護面を脱ぎ捨て地面に叩き付ければ鈍い音がした後地面を重々しく転がる。 「太宰!! 何処に居やがる!!」  中也の呼び声が橙色の空へ静かに吸い込まれて行く様な気がした。大凡目視出来る筈も無い其の距離は約一粁、何かを感じた中也は振り返ると同時に防波堤を駆け下り乍ら走り出して居た。  若し間違いだったら等という考えは微塵も頭を過らなかった。風が吹き、魚が跳ね、鳥が触れ小さな水紋が伝播していく。其の中で確かに川に在るには違和感の強い大きな影。中也が探し求めた太宰の姿に間違い無かった。  橙色の水光が太宰の顔をほんのりと照らし、顔色が善い様にも一見して視えた。然し数日飲まず食わずの状態で在った事は事実で、何処かふらついた様子で一歩また一歩と川の中腹へと脚を進めている。痕跡ひとつ残さず簞笥の中から適当に見繕ったのか、服を着て居る事がせめてもの救いだった。そうで無ければ此処へ到着する前、疾うに軍警の手に依って不名誉な罪状で捕縛されて居た事だろう。

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