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第1話

     1  夕暮れの風に涼しさが増して、晩夏も初秋へと移り変わっていく。  その日、離れの縁側で周平(しゅうへい)と将棋を指していた佐和紀(さわき)は、じりじりと負けた。  賭けていたものがある。互いの『左側の乳首』だ。実力に大きな差はないはずだったが、賭けるものがこれだと周平は絶対に負けない。  へそを曲げた佐和紀は縁側を飛び降りて、組屋敷の庭へ出た。本格的な日本庭園には池も築山もある。  大滝組(おおたきぐみ)は関東一の大組織で、その中核にあるのが大滝組直系本家だ。本拠地は横浜で、広大な敷地に母屋と三つの離れを有している。それぞれの離れには、組長、若頭夫婦、若頭補佐夫婦が暮らしていた。よそでは聞いたこともない特異な例だ。  散策路を歩いていた佐和紀は、振り向きながら胸の前で腕をクロスさせた。周平から左の乳首を守るためだ。 「勝ったのは俺だ」  嬉しそうに言われると、ますます怒りが募った。 「ずるい……。絶対、いかさまだ」 「言いがかりじゃないか」  笑っている周平からさらに距離を取って歩く。  暮れかかった空の下。東屋のそばで袖を掴まれた。さらりとした紺地の浴衣だ。  つれなく袖を引くには、旦那を愛している。  くちびるを尖らせて睨みつけると、あっという間に抱きしめられた。突き出したくちびるを上も下も一度に吸われ、顔をしかめて文句をつける。 「ちゃんとするから」  手の甲で頬をなぞられ、ぞくりと腰まわりが痺れた。  大滝組若頭補佐である岩下(いわした)周平と結婚して五年。チンピラなのに初心でまっさらだった佐和紀は、甘いささやきにどんどん弱くなっている。背中をなぞられながらキスされると、腰を押しつけてしまうぐらいだ。  周平の手が器用に裾を乱し、イージーパンツの柔らかな生地が膝の内側をこする。 「ん……」 「いやらしい声だ」  腕を引かれ、東屋のテーブルに座らされる。頑丈な陶器でできていたが、こんな使用方法は想定されていない。 「もう勃ってるんだろう」  左胸に伸びてきた周平の手は、浴衣の上からでもピンスポットにそれを見つける。指先で乳首をかりっと掻かれて、佐和紀はのけぞって息を呑んだ。熱い吐息が意図せず漏れる。 「これは俺のご褒美だ」 「……いつも、してるくせに」 「それでも、勝負に勝つのはいいもんだろ」  ゆっくりと円を描きながら撫でられ、布地の下でぷくりと膨らんだ乳首が、親指と人差し指に挟まれる。もどかしい快感がじわっと広がり、佐和紀は後ろ手に身体を支えた。 「こんなところで……」  夕暮れが来たばかりの屋外は、まだ明るい。 「少しだけだ」  肩を抱かれ、油断した隙に、もう片方の手が合わせの中へ忍び込んだ。 「あっ……」  直接、肌に触れられ、身体が痺れた。背中をそらして、片手を周平の背中に回す。カットソーを握りしめた。 「佐和紀。見られるかもしれないと思って、興奮してるんだろう? コリコリに勃起している。エッチな乳首だ」  耳元にささやく周平の指のほうがもっと淫らだ。小さなつぼみを捕らえ、くりくりといじってくる。 「あ、あ……」  思わず、いつもの甘い声が出た。 「ダメ、だ……」  拒んで身をよじると、手はするりと抜けていく。しかし、それであきらめる周平ではない。いきなり合わせを引っ張られ、左前がずりあがる。胸元がはだけた。 「や、だ……」  本気で拒めば突き飛ばせるはずだが、できなくて顔を背けた。まるで乳房を掴むように、周平の手が佐和紀の胸筋に触れる。周平は戸惑うことなく顔を伏せた。  生温かな舌がぬめりを帯びて這う。離れると、空気に触れた先から、肌がひやりと冷たさを感じた。その直後には強く吸いつかれる。 「好きだろう。こうされるのが……。こっちも触ろうか」  手のひらが太ももをたどる。ボクサーパンツの裾から、周平の指が忍び入った。 「ふっ……ぅ……」  そのあいだも音を立てて乳首を吸われ、佐和紀は戸惑う。意識が朦朧として、吐息がくちびるから漏れ出た。こんな場所で、と思うからなおさらだ。このまま抱かれても文句は言えない。いっそ……と思う気持ちもあった。  冷たい陶器の上でイかされる背徳感を妄想すると、股間がズキンと跳ね、質量が増す。 「ここじゃ、やだ……」  急にこわくなり、周平の髪を乱して抱き寄せた。  自分からキスを求め、互いの眼鏡を避けて首を傾げ、くちびるを合わせる。それでも欲情が募るほどに眼鏡はぶつかり、互いの唾液を混ぜ合う音に煽られた。どちらからともなく息が乱れる。 「……お願い」 「戻ったら、両方の乳首とも、俺のものだ」 「いつものことだろ、バカ……。俺は、こっち……」  手を伸ばして、もうすっかり硬いものを掴む。周平は悠然と微笑んだ。 「たっぷり、かわいがってくれ」  暮れていく秋夕の中で見る周平はいっそう涼しげで、あけすけなまなざしが淫靡で艶っぽい。眺めた佐和紀の心は、夜露にしっとり濡れる秋草のように、せつなく震えていた。         ***  ソファに座った京子(きょうこ)が、細い足を組み変える。 「由紀子(ゆきこ)の居場所は、突き止めてあるのね」  佐和紀と秋の夜長を堪能した三日後。周平はレストランバーの個室にいた。  同伴者は大滝組若頭・岡崎(おかざき)の妻であり、組長の娘でもある京子だ。  今夜の密談は、高層ビルの飲食フロアにあるオシャレな店で、夜景の美しさが『売り』のデートスポットだ。傍から見れば、似合いのカップルにも見えるふたりだが、泥酔していたって間違いを起こしたくないと心底から思い合っている間柄だ。  シェリー樽の香り漂うウィスキーを揺らし、周平は京子の質問に答えた。 「悟られないように、監視をつけてあります」 「そう。それで……、知世(ともよ)はどうなってるの」  京子は物憂い顔で、ソファの背に腕を伸ばした。  北関東の暴力団『壱羽組(いちばぐみ)』の次男坊・壱羽知世が佐和紀の世話係になったのは去年のことだ。岡村(おかむら)に惚れたとデートクラブへ現れ、大滝組に転がり込んだのを佐和紀が拾いあげた。  そして、カタギに戻すと決めたのも佐和紀だ。 「……かわいそうに思っているのよ」  京子が水割りの氷をカランと鳴らす。周平は静かに答えた。 「弁護士が決まったので、来週中には警察に書類を回します」  構成員であれば脱退の届けを警察へ提出するのだが、実家でも大滝組でも盃を交わしておらず構成員の名簿に載っていない。しかし警察側の準構成員リストには入っていることが確認できたので、暴力団側から警察に対して回す絶縁通達の書類を出すことにした。  通常は問題のある構成員を追い出す手段だ。絶縁した者が犯罪に加担しても組長に使用者責任はないことを証明するためのもので、知世の場合は実家と縁を切るために利用する。 「知世の兄にも、同じ書類を送ります」 「これで、彼が知世をあきらめてくれたら、何事もないのよね」 「……そうです」 「ありえないのね」  知世の兄・貴和(きわ)は、弟を都合よく利用してきた。  自分のために乱闘させることに始まり、友人たちとの性交渉、そして借金返済の肩代わりだ。知世は、裏風俗で働いた挙げ句に、周平をたらしこんでこいと命じられ、大滝組へ潜り込んできた。兄から逃れる絶好のチャンスだったのだろう。いまでは、本心から望んで佐和紀のそばに落ち着いている。  世話係にする際、岡村が金を出し、兄との話はついているはずだったが、貴和の嫁・愛美(あいみ)が生活費をせびりに来たことを発端に、兄もまた金の無心を再開した。  完全なる契約違反だ。大滝組の看板を背負っている岡村が報復に出ることはできたが、知世は望まなかった。貴和の背後に由紀子がいると知ったからだ。 「あの女が糸を引いているんじゃ……ねぇ」  京子の憂鬱な表情には、あきらめと怒りが混在している。  かつて周平と京子に地獄を見せた悪女は、ふたりが望んだ通り、佐和紀によって追い詰められ、表舞台から姿を消した。京都のヤクザ・桜川(さくらがわ)とは離婚となり、ほうぼうで繰り返した悪行の報復から逃れるために身を隠していたが、いつのまにか知世の兄・貴和をたらしこんでいたのだ。  周平と岡村に知らせた知世は、ふたりの仲に手を出さないでくれと言った。 「佐和紀は知らないのよね。岡村から話しているの?」 「いえ、口止めしています」  周平は首を左右に振った。岡村は元々、佐和紀を守ろうとして知世を引き入れたのだ。周平の舎弟ではない、佐和紀だけの関係者。それを傷つければ、佐和紀が痛手を負うと由紀子は思う。岡村は知世の精神的な強さを見込んで、わざとスケープゴートを置いたのだ。  知世も役割を理解している。佐和紀からカタギに戻れと言われて従ったのも、すでに由紀子の標的が自分になっていると知ってのことだ。 「怒るでしょうね」

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