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第2話

 佐和紀は純粋に知世のことを想ってカタギに戻すのだ。捨てるわけではない。なのに、周平たちは知世を餌にして、由紀子を泳がせている。  知ればもちろん怒り、知世を手元へ引き戻すだろう。しかし、いまはまだ時期が悪い。 京都から追い出された由紀子には関西ヤクザの後ろ盾があり、佐和紀の古巣であるこおろぎ組を追い出された本郷(ほんごう)もついている。  ふたりが北関東へ流れてきたのは必然で、壱羽組組長代理を務める貴和に取り入ったのも、佐和紀へのいやがらせだけが理由ではない。 「京子さん。知世のことは別として、由紀子の処分については、いくらでも変更できますよ。不満があるのなら……」 「いいのよ。もう納得したわ。あの女への復讐なんて、元から興味ないから」  答える京子は、薄く笑った。  あの女には苦汁を飲まされたが、すべては過去だ。京子もそう思えているのなら、由紀子への報復は互いの手を汚さず法の裁きに任せるべきだと周平は進言した。  受け入れたときは強がっているのかと案じたが、興味ないと言った表情に偽りは感じられない。私怨にこだわれば事をし損じる。女侠客の京子は、それをよく理解している。 「北関東の一派。この頃、金回りがよくなったって噂ね。銀座あたりにまで飲みに出てるらしいわよ。……もう証拠は出てるの?」 「ある程度は揃えています」  今夜の本題はこちらだ。北関東に流れた由紀子と本郷は、桜河会(おうがかい)が横浜でおこなっていた薬物売買のルートのいくらかを横取りし、壱羽組を隠れ蓑に薬物をさばいている。売り上げた金は別のヤクザへ流れていた。  京子と周平が『北関東の一派』と呼ぶ、反岡崎の一派だ。 「知世は拾いものだったわね」  かわいそうだと言ったのと同じ口調で、派手な化粧に素顔を隠した京子が眉をひそめる。グラスをテーブルに置き、タバコを掴んだ。一本抜いて、くちびるに挟む。  立ちあがった周平は、ライターの火を向けた。  知世は、北関東の一派の動向を探る協力をしながら、由紀子への餌にもなっている。実害があったときは、実行犯とともに由紀子も警察に引っ張らせる算段だ。そのまま余罪を追及するための被害者集めも済んでいる。 「あんたのことは虫が好かないけど、こういうときのやり方は嫌いじゃないわ。そうじゃなかったら、顔も見たくない」  不機嫌を隠そうともせず、京子はタバコをふかした。 「褒める気がないなら、素直にけなしてください」  笑ってソファへ戻った周平もタバコに火をつける。  無名だった周平を見出し、力を与えたのは京子だ。引き換えに、周平は『協力』を約束した。そのひとつが岡崎を次期組長に就任させることだ。  そして、もうひとつが、角谷(かどたに)昌也(まさや)の延命だった。  昌也は、由紀子にそそのかされて京子を暴行した加害者のひとりだが、京子は彼と愛し合い、子どもを産んだ。そのあと、昌也は刑務所へ入り、京子は岡崎と結婚した。  あれからずっと、昌也は入退所を繰り返している。京子はいまだに面会へ行き、昌也は由紀子への復讐だけを考えて生きていた。  由紀子が死ねば、目的を失った昌也も死ぬ。京子はそう考えている。だから、八つ裂きにしたいほど憎い女を野放しにしてきたのだ。  しかし、互いの人生を奮い立たせてきた女狐の存在は、いまや些事に過ぎない。岡崎を次期大滝組組長に据え、あと半世紀、大滝組を内部抗争で疲弊させずに存続させる。それが、周平と京子の大きな目的だ。 「知世は、自分の兄がなにかしでかすことを、期待しているのね」 「確信していますよ。縁を切るための決定的な出来事を探しているのか。それとも、自分自身のために、深手を負いたいのかもしれませんね」 「傷を隠すための傷……?」  ふっと息をつく京子の横顔を見つめ、周平は指に挟んだタバコをくちびるに近づけた。煙を吸い込み、静かに吐き出す。白いもやが視界に広がった。  知世は、自分の兄の凄惨さを知っている。  弟は『壱羽の白蛇』と呼ばれているが、兄の二つ名は『蛇使い』だ。壱羽組の美しい兄弟は、他人から都合よく利用される一方で恐れられていた。貴和は軽度の知的障害を持っていて、気性が荒く貪欲だ。自分を邪険にする人間を許さず、取り入るためにも、傷つけるためにも、弟を使う。  そういうことが子どもの頃から繰り返され、母親も耐えかねて蒸発した。父親は貴和の尻拭いをすべて弟の知世に押しつけて見ないふりだ。貴和と違い、知世は『限度』を知っている。あとは『実家がヤクザだから』と周りが勝手に納得したのだろう。  貴和にとって知世は、どんなふうに扱っても痛まない『分身』だ。自立することは裏切り以上の衝撃を彼に与えるに違いない。そのとき兄がどうなるのかを、知世は熟知している。おそらく、周平の理解を超えるだろう。  しかも、『なぶり殺し』が性癖の由紀子がそばにいる。  本当なら止めてやるべきだ。知世は現役の大学生で将来もある。佐和紀のことを思えばなおさら、こんなことに巻き込んではいけない。 「悪いことを考えている顔……」  京子がグラスを揺らす。赤い爪につけたスワロフスキーがきらめいた。  あくどいのは、周平だけではない。若い知世の覚悟を利用する京子も、清濁すべてを飲み干している。 「約束は果たしますよ、京子さん」  岡崎を組長に据えると誓い合ったとき、周平は泥の中から救われた。  もしも京子がいなければ、過去に囚われたまま、復讐心さえ由紀子にもてあそばれていたかもしれないのだ。そうやって打ち砕かれた自尊心を元に戻すには、過去の自分自身を慰撫するだけではダメだった。  その先にある闇の中を探って、影も形もない未来を選び取る必要がある。  だから、周平は知世を止められない。美しいままの自尊心で生きてきた佐和紀には、わからない世界だ。知る必要もなく、遠ざけるためならどんなことだってする。  知世も岡村も同じ気持ちだろう。喪失のいびつな苦しみを知っている人間にとって、佐和紀の涼やかな存在感は黄金律の美しさに等しい。苦労知らずの無垢ではなく、もがきながら守り抜かれた純粋さだと知っているからなおさら、ひれ伏したくなる。 「あんたの義理堅さだけよ。佐和紀にふさわしいのは……」  静かに笑う京子の言葉が、胸に刺さって沁み込む。  佐和紀の存在の美しさは、同時に苛烈だ。男の覚悟を試し、いっそう男であれと自己に対する責任感を求めてくる。無自覚で無差別だから始末に負えない。  知世も煽られたのだろう。だから、岡村と周平に『邪魔をするな』と宣言したのだ。佐和紀のためだとしても、自分を助けないでくれと釘を刺した。  兄もろとも破滅したとしても、自分の人生のケジメを自分の手でつけると覚悟している。それは自分自身のためであり、ふたたび佐和紀の前に立つとき、清廉潔白でいるためだ。  どんなことがあっても、知世は佐和紀のもとへ戻ってくる。  たとえ、組織の外にいても。生きてさえ、いれば。           ***  左足を軸にして沈み、身体をひねりながら地面を蹴る。遠心力を味方につけた白い右足が宙を切り裂いて、男のこめかみを直撃した。鈍い音が、道幅のある路地に響く。 「ケンカを売ってきたのは、そっちだろ」  木綿の着物を尻っぱしょりにした佐和紀は、倒れた男の胸ぐらを掴んだ。すっきりと伸びた足の先、からし色の足袋の裏側はコンクリートをにじって黒く汚れていた。  男に対して、佐和紀が拳を振りあげる。すかさず止めたのは、殴られてくちびるの端を切った知世だ。佐和紀を見つめたまま、知世は男の肩を蹴り飛ばす。  軽い仕草だったが、佐和紀の指がはずれるにはじゅうぶんだ。男はごろりと転がった。 「忘れものだ! 仲間ぐらい、回収しろよ!」  すでに逃げ出した仲間の男たちに向かって知世が怒鳴る。転がった男の尻を蹴りあげると、ひぃひぃ鳴いて仲間たちを追った。慌てて逃げる後ろ姿は滑稽だ。  身体が大きく、格闘技の心得もありそうだったので、佐和紀が嬉々として受け持ったのだが、遠野組(とおのぐみ)の能見(のうみ)がやっている道場の門下生より貧弱で拍子抜けした。 「止めんなよ」  引きあげていた裾をおろし、消化不良な佐和紀は目を据わらせる。 「殺してしまいますよ」  怯むことなく、にこりと笑い返した知世はすっきりと整った顔だちだ。透けるように白い頬に、血の跡が伸びている。佐和紀が指先で拭ってやると、頬がほんのりと上気した。淡い紅を刷いたみたいになり、少年の初心さが見える。  しかし、ケンカの勘どころはよく、佐和紀が驚くほど人を殴り慣れていた。 「ちょ、ちょっ……ッ! 目を離したら、これだよ!」  ドタドタと走ってきたのは三井(みつい)だ。うなじでぎゅっとひとつに結んだ髪が激しく揺れ跳ねる。体格のいい男ふたりが、追って走ってくるのが見えた。顔はいかついが、まるで頼りにならないボディーガードたちだ。 「おまえな! こっちの身にもなれよ!」  三井に怒鳴りつけられる佐和紀は、草履を拾ってきた知世の肩に掴まった。汚れた足袋の裏を払ってもらい、草履をひっかける。 「聞いてんの! 姐さん!」  人通りのない路地に怒鳴り声が響く。近道をしようと出てきたサラリーマンが慌てふためいて引き戻す。賢明な判断だ。 「だって、ケンカを売ってきたのはあっちだ。なぁ、知世」 「『なぁ、知世』じゃねぇよ!」 「護衛なんて頼んでない」 「ガキみたいなこと言うな! 知世! おまえもおまえだ。止めるならまだしも、一緒になってやってんじゃねぇぞ」 「止めましたよ……。姐さん、回し蹴り決めてんのにまだ殴ろうとするから。殺しちゃいますよね」 「あああああっ!」  頭をかかえた三井が地団駄を踏み、両隣に並んだいかつい男たちは右往左往する。  佐和紀の親衛隊を名乗る幹部たちが勝手につけた非公式の護衛だ。

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