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第3話
「控えて、って言ってるだろ!」
ぷりぷり怒る三井に腕を掴まれ、連行される。タイミングよく滑り込んできた車の中へ知世ごと押し込まれた。
大通りでやれば警察を呼ばれかねない絵面であることは、三井もよくよく承知している。佐和紀も知世も、暴力団関係者に見えないからだ。
車はすぐに走り出し、護衛たちを乗せた車が後ろに続く。行き先は大滝組の組事務所だ。エレベーターは事務所のフロアを通り過ぎ、佐和紀は上階の応接室へ入れられた。
「おまえがケンカを買うから知世が殴られるんだ。わかってる? ケガは?」
ソファに座った佐和紀の目の前で、三井はテーブルに腰かけた。手首を掴まれ、拳を検査される。応接室にはふたりきりだ。知世は汚れた足袋を洗うため、退室している。
されるに任せた佐和紀は、物憂く眉をひそめた。
「あいつらは邪魔だよ。寺坂(てらさか)に言って引き取らせてくれ」
横浜信義会(しんぎかい)瀬川組(せがわぐみ)の幹部・寺坂は、スキンヘッドで固太りの、いかにもヤクザな中年男だ。佐和紀の美貌と気風に惚れ込み、別の組の幹部四人と非公認の親衛隊を結成している。
「俺への連絡が入るだけ、ましなんだよ。これ……」
手をひっくり返した三井が、ぎょっとする。手首に散っているアザは小さな鬱血の痕だ。
「それは、キスマーク」
周平が朝につけたものだ。派手に残されて、見るたびに落ち着かない。
「あんたらは、なにをしてんの」
はぁ~っと息を吐き、三井はうなだれた。
「あいつが朝からサカっただけだ。挿れさせたらこれだもん。やめときゃよかった」
「うっせぇよ……。されてなかったら、もっと暴れてただろ。……ほんっとに……」
結んだ髪をほどき、ぐちゃぐちゃとかき混ぜて唸る。
周平からは黙認されている親衛隊が、三井を通して連絡してきたのは九月の初めのことだ。佐和紀のことを嗅ぎ回る不審な連中がいること。そして、彼らを探った結果、由紀子が北関東にいることがわかった、と伝えられた。
周平と京子の過去に由紀子が関与していることは、ごく一部の人間だけの秘密だ。
寺坂たちは、由紀子と佐和紀の因縁しか知らない。
「なにが嫌なの。なぁ……」
三井が身を屈め、その隣に裸足を投げ出した佐和紀は不機嫌に視線をそらす。
「俺とシンさんが勝手に決めたからか? こういうことは、上にあげないもんなんだよ。いちいちお伺いを立ててたら、出遅れるだろ」
「むかつくんだ」
「……はいはい。意味はないのね」
肩をおおげさに上下させ、髪を結び直す。
護衛を受け入れたのは三井と岡村だ。佐和紀は完全に蚊帳の外に置かれたが、それは仕方ない。腹立たしいのは、行動を制限されたことだ。お行儀良くしろと言われると、暴れ回りたくなる。
「……なぁ、佐和紀」
姐さんと呼ばないときの三井は、友人の立場で発言する。
「おまえのさ、自由にやりたい性分は知ってる。でも、上に立ったら、そうはいかなくなるんだよ。おまえになにかあってみろ……。いや、なにかあるかもしれないと、そう思うだけでも下はザワつく。それはいいことじゃない。おまえだって、組長(オヤジ)さんが狙われてると聞いたら、心配になるだろ。でも、わちゃわちゃ動いてちゃダメだろ?」
「……俺は、上になんか立たない」
「なにをガキみたいなこと言ってんだよ。おまえが乗る神輿は、着々とできあがってんだぞ。……そのつもりじゃねぇのかよ」
古巣のこおろぎ組を継がないかと松浦(まつうら)組長から打診され、いつかは……と、思った。それは確かだ。しかし、周りから急かされると億劫になる。束縛が嫌なのだ。フットワークを軽くしていたい佐和紀にとって役職は重い。しかも『組長』だ。
「おまえにはわからない」
三井を突っぱね、佐和紀はくちびるを尖らせる。
世話係だった石垣(いしがき)が渡米して一年。誰もがこのままでいられないと理解して石垣の背中を押したが、そのあと堰を切ったように物事が変わりだした。世話係の筆頭だった三井さえ、周平について回る仕事が増え、各所へ顔を売っている。
大滝組の若手を締めあげる飴と鞭の役割も、岡村と三井の仕事ではなくなった。
そこへきて『由紀子』だ。めまぐるしさに心が置いていかれそうな状況で、一番聞きたくない名前だった。
「三井さん、事務所に呼ばれていますよ」
ドアがノックされ、知世が顔を見せる。三井がテーブルから立ちあがった。
「この話は、またあとでな」
「もうしなくていい」
佐和紀はそっぽを向いて答えた。三井に代わって入室した知世は、テーブルをキレイに拭き、緑茶の湯のみを置く。
佐和紀の足元に膝をつき、ポケットから足袋を取り出した。
「予備がありました。……三井さんが禿げるんじゃないかって、下で言われましたよ」
テーブルからおろした佐和紀の足首をそっと掴み、立てた膝の上で足袋をあてがう。
このビルは全体が大滝組の所有物件だ。一階は駐車場。二階は各部屋を備品置きとした倉庫フロア。三階が壁を取っ払った広い事務所になっていて、その上は会議室や応接室に分けられている。
「どうでもいいよ。あいつも、俺の味方じゃなくなってきたしな」
佐和紀がそっけなく言うと、足袋のこはぜを留める知世の表情が曇った。
「佐和紀さん。それは、口に出さないでくださいよ。三井さんが傷つきます」
「……知るか。そんなの」
「知らなくないでしょう。……同じ目線で景色を見てくれるのは、三井さんだけなのに。友人は貴重なんですから」
「……おまえ、そういうの、いる?」
友人という響きに、佐和紀の胸が痛む。忘れたい過去の面影が脳裏をよぎり、また暴れたくなった。束縛がストレスだと思うのは、自分自身へのごまかしだ。問題をすり替えているに過ぎない。
佐和紀の鬱屈の原因は、周囲の変化でも由紀子の影でもなく、変わっていく景色の中に自分だけが取り残されていく感覚のせいだった。友人という言葉に思い知らされる。
「大学の友達ならいます。でも、ちょっと違いますよね。彼らは、俺がこんなことしてるのも知らないし……。仲良くなりすぎないようにしてるところ、ありますね」
「兄貴のせいか」
「いえ、兄は関係ありません。ヤクザに片足突っ込んでるのは、生まれたときからです。打ち解けられないことには、慣れてますよ」
それもあと幾日かのことだと佐和紀は思った。
周平が用意したお仕着せの世話係たちとは違い、知世は気に入って手元に置いた男だ。なおさらにかわいい。なんとしても家族と縁を切らせ、まっとうな生き方をさせたいのだ。
大学卒業まで、あと一年半。そのあとは就職だ。恋をして、結婚して、幸せな家庭を築いて欲しかった。その相手が男でも、知世が選ぶのならかまわない。
「……わかったよ。三井とも仲良くすればいいんだろ」
わざとくちびるを尖らせ、知世を安心させるために言う。
「あとは佐和紀さんが気に入ってくれる世話係が見つかればいいんですが」
肉づきの薄い肩をひょいとすくめ、知世は首を傾げる。さらさらした前髪が額を覆って、目元にかかった。
「佐和紀さん。俺が離れたらケンカは控えてください。歯止めが利かない感じがします」
「……手加減してる」
「まぁ、そうなんですけど……」
眉をひそめた知世は、くちびるを少しだけ曲げた。
「手加減しながら追い詰めるのは、なぶり殺しっていうんですよ。知ってます? 結婚する前から、そんなケンカの仕方だったならいいんですけど。いや、良くはない……」
言われて初めて、そうなのかと気づいた。ケンカの内容について考えたことはなかった。
「昔は、オヤジとか岡崎とかが、うるさくて……」
こおろぎ組は格式ばかり高い弱小組織で、侮られることは日常茶飯事だった。そういう扱いをされると頭にきて、金属バットを手にひとりで『カチコミ』をかけにいく。
傷を負うことは平気だったが、担ぎ込まれた病院のベッドを取り囲み、年長者たちから口々にどやされるのは身体的にも精神的にもこたえた。まだこおろぎ組に構成員がたくさんいた頃の話だ。
次第に無用なケンカを避けるようになり、日頃の鬱憤はチンピラを狩ることで発散してきた。話して聞かせると、その場に膝をついた知世は、けらけらと笑い出す。
「それは相手も不幸ですよね。……ケンカを売られても買わないでください。佐和紀さんが心配だから言うんじゃありません。三井さんはともかく、岡村さんに十円ハゲができたら嫌なんです。お願いですよ。そうじゃなかったら心配で心配で、大学へ行けません」
「バカか。行けよ。おまえにはその頭がある」
「本当に利口なら、もっと違う人生だったと思うんですけど」
「これからがあるだろ」
口にした途端に知世が眩しく見える。佐和紀は眼鏡越しに目を細めた。
背格好や顔の雰囲気が似ていると言われても、ふたりは別々の人間だ。知世には『佐和紀に似ている青年の人生』ではない彼だけの人生がある。
「知世。おまえは俺なんかには似てない。よっぽど、きれいな顔をしてる。掃きだめの鶴なんかでいるな」
ソファから身を起こし、そっと手を伸ばした。手の甲で撫でた頬は、吸いつくようになめらかな肌だ。ひやりと冷たい。
「佐和紀さんだけです。……そんなふうに言ってくれるの」
「ヤクザなんかに言われて喜ぶな。おまえを待ってる男が、絶対にいる……」
ケガをしている口元にそっと親指で触れる。線を引いていた血は洗い流されていたが、少し腫れているのがわかって、胸が苦しくなった。三井の言う通りだ。佐和紀が自制すれば、知世がケガをすることはない。
それでも、ふたりで組んで暴れるのは楽しかった。楽しかったから、もう終わりにする。
「俺を待ってる男なんて、いるんでしょうか」
知世の視線が揺れた。これからは遠くで見守るしかない佐和紀の胸もかすかに痛む。
そばにいて導いてやれる自分ならよかったのにと心底から思った。
「おまえにはおまえの道筋があるんだよ。だいじょうぶ。保証する」
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