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第4話

 たわいもなく、いい加減なセリフだ。絶対なんてないことはお互いに知っている。けれど、佐和紀は責任を持って請け負いたかった。信じることが力になることもある。 「……はい」  揃えた膝の上に拳を置き、知世は身体を硬直させた。いまにも震え出しそうなのをこらえているのか、声を絞り出して答えた瞳はしっとりと濡れている。 「そうでした、佐和紀さん」  涙になってこぼれる前に、知世は話を変えた。 「例の呼び出しの件。場所が決まりました」  にっこりと笑う顔に憂いはない。佐和紀の気持ちも静かに凪いだ。         ***  佐和紀が呼び出されたのは、都内の『かに料理店』だ。  初めて訪れた店舗は、繁華街のざわめきの中にあった。雑居ビルに囲まれ、旗竿地の入り口は見落としてしまいそうなぐらい質素で、小さな格子戸があるだけだ。  看板もなく、営業しているかどうかもわからない。奥を覗くと、ひっそりと地面を照らす足元灯が見える。格子戸はからりと開いた。  濡れた飛び石を踏んで先へ進む。通りからは見えなかった庭木に挟まれ、奥へ続く道はくねっている。まるで『露地』だと、茶道を嗜む佐和紀は思う。茶室に続く通路のことだ。  夜の暗さに注意しながら進むごとに、夜の喧騒が遠のいていく。やがて、苔むしたつくばいが、淡い光の中に浮かびあがった。その向こうに、平屋の日本家屋が建っていた。  振り向いても、繁華街の通りは庭木に隠れて見えない。  間口の狭い日本家屋の、雨戸に似た入り口がガタガタと音を立てて開き、恰幅のいい女が現れる。店の女将だろう。格式の高い和服が板につき、厚化粧の顔には品のいい笑みが貼りついていた。  たじろいだ知世が偽名を告げる。すると、無機質な能面の微笑みが、生身の笑顔に変わった。佐和紀も、思わずホッとする。  さぁさぁ、どうぞ、と誘い込む女の声は関西のイントネーションだ。またしても現実感が乏しくなり、まるで関西にいるような錯覚に陥った。  狐につままれた心地で草履を脱ぎ、奥へ奥へ案内される。磨きあげられた廊下はひんやりとしていたが、どこからともなく陽気な三味線が聞こえ、雰囲気は悪くない。  そして小上がり付きの部屋に着く。女将が声をかけた襖の向こうには、すでにふたりの男がいた。わざわざ知世を介し、内密に佐和紀を呼び出した張本人たちだ。  なにの冗談なのか。平伏の姿勢で迎えられ、知世を従えた佐和紀は、思わず舌打ちしそうになった。グッとこらえ、結城紬の衿をしごく。  どうやら、楽しい宴会に呼ばれたわけではなさそうだ。わかっていたが、こうもあからさまでは気が萎える。  男のうち、ひとりは大阪のヤクザだ。高山組(たかやまぐみ)系阪奈会(はんなかい)石橋組(いしばしぐみ)組長・美園(みその)浩二(こうじ)。がっしりとした体躯に、四十代半ばの凄味ある顔つきをしている。分裂騒動で揺れる日本一のヤクザ組織・高山組のキーマンだ。  そして、もうひとり。美園の隣に並んでいるのが、京都市内を牛耳る桜河会若頭補佐・道元(どうげん)吾郎(ごろう)。美園より一世代下の若手だが、高山組の圧力に屈せず独立を守る桜河会の逸材と名高い。  そのふたりから平伏で迎えられる佐和紀を、女将はどう思っているのか。振り向くのも怖い。動けずにいると、空気を読んだ知世に上座を耳打ちされた。床の間にひとり分の席が作ってある。テーブルには土鍋が用意され、向かい側にはふたり分の席があった。  まず佐和紀が上座に落ち着き、手の届く位置に知世が控える。  酒の用意と知世の分の座布団を女将へ頼んだ美園に続き、道元も座った。佐和紀から見て、右が美園、左が道元だ。待つほどもなく、ビールが運び込まれ、江戸小紋を着た仲居が酌をして回る。  そして、乾杯の音頭を美園が取る。ぐっと飲んで、佐和紀はグラスを置いた。 「あとは、お好きなものをどうぞ」  道元が言うと、仲居からドリンクのメニューを渡される。小さな和綴じの冊子だ。毛筆で酒の名前が書き連ねてある。 「知世」  声をかけてメニューを渡す。座布団を敷いた上に行儀良く正座している知世は、涼しげな顔でさっと一通り眺めた。 「北陸のものがいいかと思います。辛口でよろしいですか」  小声で確認を取り、選んだ酒を仲居に告げる。佐和紀の向かい側に座るふたりは神妙な面持ちのまま同じものをと言った。テーブルの土鍋では『かにすき』の準備が進んでいた。 「なにの冗談だ。いきなり呼び出して、悪ふざけもいいところだ。ヤクザごっこなんか、おもしろくもない」  ふたりを順番に睨みつける。頼んだ酒と、山盛りのかにが運び込まれてもまだ、ふたりはきちんと膝を揃えたままだ。知世だけが、粛々と佐和紀の分のカニを茹で始める。佐和紀は落ち着かず、手酌で日本酒を飲んだ。 「おふたりとも、そろそろ足を崩してください。うちの姐さんは気が短いですよ」  カニの身をはずしながら知世が言う。むき身は、佐和紀の取り皿へ置かれた。半生でいいと仲居が説明した通り、見るからに新鮮そうだ。 「改まって話がしたい。まずは食べてもらって」  いつもは威圧的な美園が今日に限って控え目な物言いをする。 「メシがまずくなる」  そう言って、佐和紀は掴んだばかりの箸を置いた。 「周平の目を盗んでヤクザの話がしたいなら、俺は帰る」  友人の誘いだと思うから旦那には言わず出てきたのだ。 「申し訳ない!」  がばっと頭を下げたのは道元だ。勢いに驚いた知世が、カニを取り落とす。  関西で有望視されている道元は一時期、道を踏みはずしかけていた。親分の嫁だった由紀子に翻弄されていたのを、佐和紀が荒療治で引きずり戻した経緯がある。頼んできたのは、親分の桜川自身だ。結果、由紀子は離縁され、道元はここにいる。  佐和紀の扱いにくさを身に染みて知っている都会的な色男は、すぐに足を崩す。促された美園も、しぶしぶ従った。 「雰囲気、出してやったんやないか」  いつもの口調に戻り、おもしろくなさそうに膝を叩いた。佐和紀はずけずけと言い返す。 「うっせぇよ。持ちあげられて喜ぶほどガキじゃない。どうせなら、きれいどころを用意しとけよ。弾むものも弾まないだろ。だいたい、真幸(まさき】)はどうした。目と鼻の先で無視して帰るつもりか」  横浜で匿われている伊藤(いとう)真幸という男は、美園の十年来の愛人だ。 「真幸さんなら、都内の高級ホテルにいます」  知世がさらりと言う。 「ご存じなかったですか。昨晩と今晩と。ゆっくりされているはずです」 「連れてこいよ」  佐和紀はまた不機嫌になった。来るに来られない理由があることは想像に易い。久しぶりに会った恋人同士だ。美園が足腰の心配をして手加減するとも思えない。 「明日までは俺だけのもんや」  美園がにやつきを隠して答える。佐和紀は鼻で笑いながら、矛先を変えた。 「で。道元は誰に会いに来たわけ? 岡村なら呼ばないからな」 「岡村さんは、横浜で忙しくされています」  知世が、またさらりと口を開く。抑揚のない声にはトゲがあった。 「そんなつもりで来てません」  佐和紀に向かって答えた道元が、知世へ視線を向けた。 「仕事の都合で連絡を取ってるだけだ」 「そうですか。いいんじゃないですか。相手にされてないことを自覚しているなら」 「知世。いじめてやるな。……それは、俺の楽しみだ」  佐和紀が含み笑いでたしなめると、知世は申し訳なさそうに肩を落とした。  岡村を巡る微妙なつばぜり合いだ。明らかに惚れている知世と違い、道元の感情はグレーゾーンだ。人生がひっくり返るほどの衝撃を与えられ、まとわりつかずにいられないのだ。整合性が取れるまで放っておけと佐和紀に言ったのは、人生経験豊富な周平だ。そんなものかと思った。  道元の中にある物悲しさは、佐和紀だけでなく、もっと若い知世にも理解できない。 「おまえらも食べろよ。場所代だけでも、バカみたいに高いんだろ?」  勧めると、美園が土鍋の中のカニを引きあげた。佐和紀は日本酒をくいっと飲む。 「で、本題はなに? 由紀子のことなら知ってるよ。おかげで、護衛なんかつけられて迷惑な話だ。今日も車で待ってる。来月にはこいつもいなくなるし、秘密で会うのは難しくなるかもな。……そうか」  知世が抜けることを知っていて、いまのうちに来たのだと気がつく。 「そこのようできた学生さんが抜けたら、もう、でけへん話や」  美園が言う。佐和紀は、ついっと目を細めた。ひそかに繋ぎを取る手段はほかにもあるだろう。たとえば、真幸だ。簡単で手っ取り早い。だが、彼を利用する気はないのだ。 「言っとくけど、こいつもわりとザルだよ。岡村に、すぐ抜ける」  佐和紀がふざけて言うと、美園は小さくうなずいて答えた。 「抜けるんは百も承知や。前にも言ったやろ。しばらく大阪へ遊びに来たら、どないや」  軽い口調の誘いを聞き流そうとした佐和紀に向かい、道元が間を置かずに言った。 「真柴(ましば)の嫁も腹が大きくなってきた。あんたがいると、安心するだろう」 「すみれ、か……」  佐和紀は思わず穏やかな気持ちになって、その名前を口にした。  知世と同じ年頃の、まだ少女めいた笑顔が思い出される。名前と同じ、すみれの花をあしらったウェディングドレスは記憶に新しい。この春のことだ。花嫁姿もきらめいていたが、妊娠を報告したときの涙はそれ以上に印象的だった。喜びと覚悟が入り混じり、純潔とは失われるものではなく再生を繰り返すものだと、そう思った。 「真柴もついているだろうけど、無理をさせないでくれよ」 「だから、御新造さんが……」 「それは禁じ手だろう」  道元の言葉を、佐和紀はすっぱりと切り捨てた。すみれを盾に引き込もうなんて甘い。  彼女の旦那は佐和紀の知り合いでもある真柴だ。桜河会会長の甥であり、阪奈会生駒組(いこまぐみ)組長の息子でもある。病床にある桜川会長が次期会長として指名済みで、いまは就任の時期を待っている段階だ。

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