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第6話
「そんなふうに言わないでくださいよ。俺は好きでやってるんですから」
若い横顔にも憂いが差し込み、しんみりした雰囲気になる。佐和紀は酔っぱらいの仕草で手を伸ばした。
「ひとりになることを、あんまりこわがるな」
知世の指に触れると、やはり、ひやりと冷たかった。
「石垣さんのところへ行かせてもいいって、岩下さんに言ってくれたんですね。三井さんから聞きました」
「あぁ、うん。……タカシにも怒られたけど」
そこまでお膳立てするのは、さすがに甘やかしすぎだと止められた。三井からだけではなく、周平からもだ。うまくいかなかったときのことは、舞い戻ってきたときに改めて考えるべきだと諭された。わかってはいるが、佐和紀の心配は尽きない。
「来年の学費も振り込んでもらってますし、ちゃんと卒業しますから」
「ごめんな。勝手なこと言ってて」
「勝手じゃないです。俺は、嬉しいですよ。……佐和紀さんのおかげなんです。ひとりになってみようと、そんなふうに思えたのは」
知世は、顔を伏せたまま話し続ける。
「いつも、逃げたかった。終わりにしたかったけど……。どうしていいかわからなかったし、俺がいなくなったら兄が困るし、周りも困るし。家族なんだからって言われるのが、どこか苦しくて。だから……、俺たちのことを知らない客と寝るのが、すごく楽でした。顔を褒めてくれるし、やればやるだけ喜んでくれる。でも俺は、客じゃなくて、兄や、兄の友人たちに褒めてもらいたくて。そうじゃないと許してもらえないと思ってたんです」
知世の息が細くなり、苦しげに胸元を押さえる。
「聞いてくださいね、佐和紀さん。……、岡村さんを『この人だ』と思って、岡村さんに喜んでもらいたくて世話係を始めました。兄に会わずにいることがこんなに楽なのかと思って。そんなふうに思う自分を、ひどい人間だと思って……」
「家族だからか」
「俺がいないと、兄は人を殺してしまうと思ってました。ずっと……。でも、俺がいないと本当にダメなのか、わからなくて。周りに聞いても、みんながみんな、俺がいないとダメだって言うんです。どうして納得したんでしょうね。俺と寝る男はみんな、兄のことが好きで、俺を身代わりにしてるんだと思ってたし……。俺自身、兄よりもいいと、そう思われたくて寝てたところがあって。だから結局、誰も、俺自身がいいとは言ってくれなかった。兄と比べたほうが、俺が必死になるし、都合がいいんですよね。……俺と兄は『共依存』なのかもしれません。気づかせてくれたの、佐和紀さんです」
「なにもしてない」
「居場所をくれたじゃないですか。佐和紀さんがいてもいいと言ってくれたからです。だから、みんな親切で……嬉しかった。でも、今度は佐和紀さんに依存しそうな自分がいて、こわいです」
「おまえは『いい子』すぎるんだよな。難しいことはわからないけど、おまえはかわいいよ。俺に似て美人だし。……ここ、笑うとこ」
知世の拳を揺すりながら顔を覗きこむ。苦々しく顔を歪めた知世は、笑っているつもりだ。いつも貼りつけている微笑みが、いまは吹けば飛ぶように、心もとない。
「だけど、それはさ、俺とおまえがそれぞれ美人なだけだ。別の人間だ。わかってるから、岡村はおまえを抱かない。……ほんとうにヤらなかった? あんまり信用してないけど」
「してません! そこは疑うとこじゃないです!」
知世が飛びあがって叫んだ。
「佐和紀さんは岡村さんにひどすぎます。もう少し、人間らしく扱ってくださいよ」
「そうすると、もっと惚れるだろ。あれぐらいがいいんじゃねぇの」
「割り切りますよね……」
「おまえも割り切れよ。岡村とのことは叶わない夢だ。兄貴とのことも悪い夢だ。どっちも目が覚める。でも、おまえはそこにいる。自分の人生を歩いてくれ。選べるんだから」
ふいに涙が溢れた。まるで涙腺が壊れたみたいに、着物の上へ、ぼたぼたとこぼれる。
「あれ……」
声を出した途端に、佐和紀の息が詰まった。知世が驚いて固まる。飲みすぎたと言えるほど飲んでいない。まだまだ序の口だ。なのに、感情がセーブできなかった。
「違う……。こんなの、引き留めるみたいだ……違う」
「佐和紀さん」
「違うんだ。……道を、選べない、人間も……」
言葉が途切れ、深く息を吐く。涙は止まらなかった。
この世の中には、道を選べない人間もいる。意に沿わぬ環境に生まれ、理不尽を抱えたまま死んでいく。生きることも死ぬことも管理され、自由に人を愛することも許されない。そういう人間もいる。
それは、佐和紀の母だ。佐和紀に用意されていた人生も同じはずだった。なのに、佐和紀は自由を手にしている。少なくとも三人の人間を犠牲にして得た自由だ。ひとりは、死因も思い出せない母。そして、突然死だった祖母。最後が、友人・西本大志(たいし)だ。
「悪い……」
眼鏡をはずし、知世が差し出すハンカチを受け取って涙を拭う。
「誰のための涙ですか」
知世が冷静に問いかけてくる。
「あの男ですか? 親衛隊の人たちが言っていた、佐和紀さんの周りを探っている人間の中には『西本直登』も混じっているんじゃないですか。彼が『由紀子』と繋がっている可能性も……」
「本当に、おまえは」
手放すのが惜しいほど、頭がキレる。そして、他人のためにしか使えていない頭脳だ。自分のことは計算に入れない癖がついている。
西本直登は、佐和紀が見捨てた大志の弟だ。佐和紀と関わったことで、彼らの人生は大きく狂ってしまった。
「俺も、そんな気がしてる」
不本意な結婚を強いられたと勘違いしている直登は、自分が佐和紀を救い出さなければならないと思い込んでいた。自分たち兄弟への償いをさせたい気持ちもあるのだろう。「おまえはさっき、自分と兄貴が『共依存』だって言っただろ。それって、お互いに依存してるってことだよな。直登は、俺に対して依存してるのかもしれない。きっと、死んだ兄の代わりにしてるんだろう……」
「佐和紀さん。答えなくてもいいんですけど質問させてください。二度と聞きません」
知世の声が沈んだ。
「……そばへ、行ってやりたいんですよね?」
言葉を聞いた佐和紀の時間が止まる。
有線放送の音が遠ざかり、笑い声も、店員のかけ声も、すべてが静寂に呑まれる。
「岩下さんはわかってくれると思います」
知世の発言に、ハッと我に返った。
音が耳に戻り、すべてが元通りになる。しかし、佐和紀の心の中だけは違っていた。
「……バカなこと言うなよ」
視線が泳ぎ、なにを見ていればいいのかさえ、わからない。
「俺には、説明できるほどの言葉がない。頭が足りないんだよ。絶対に傷つける。周平(あいつ)のことは、……大事にしてやる、って決めてるんだ」
「でも……」
言質を取ろうとする知世の手を握りしめ、黙らせる。
「このことについては、口を出すな」
睨みつけると、知世はなにも言わずに口を閉じた。悲しげな表情でうなずく。
西本直登の兄・大志は、佐和紀が見捨てて逃げたあと、十五年間もの長い時間を病院のベッドの上で過ごし、去年、亡くなった。まだ小さかった直登は、佐和紀が戻ると信じていたのだ。再会まで、十五年もかかるとは思わず、いまも呪縛の中で生きている。
解いてやるには、佐和紀がそばへ戻るしかないだろう。本人が納得しなければ、直登の時間は止まったままだ。それがあの日の償いになると思うたび、佐和紀の気持ちは乱れた。周平と過ごす現在(いま)と、直登に対する過去を天秤に載せたくはない。けれど、日に日に胸が疼く。
直登からの接触はなくなったが、週に一度か二度、直登は現れる。声をかけるでもなく、佐和紀の視界にひっそりと姿を見せ、自分の存在を知らしめた。
終わったことだと、思う。子どもの頃のことに責任は取れないと、繰り返し考えた。
ほんのわずかな期間だとしても、周平から離れるなんて考えられないことだ。ひとりにできないのか、ひとりになれないのか。それを考えることもしたくない。
どんな答えも、ふたりの関係を傷つける。だから、ただひたすらに、心がつらい。
「佐和紀さん、俺……。こうして飲んだこと、ずっと忘れません」
知世の指が佐和紀の手を握り返してくる。
「……自分の道は、自分で決めます」
いつもと違い、知世の指は先端までほんのりと温かった。
それを不思議だと思う自分の気持ちさえも、佐和紀は胸の奥に押し隠す。新しいことはなにひとつ知りたくない。そんな気分になった。
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