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悲しみに降る雨よ

 ああどうすればいい。どうすればお前を悲しみから救えるのだろうか。  江戸に来て1年も経った頃であった。そろそろ一旦帰って来てはどうだと氷雨の父からの文があった。 「どうするのだ氷雨」 「1年振りに帰っても良いのではないのでしょうか」  氷雨は買ってきた団子の包みを開きながら答える。そうかもう一年にもなるのか。そして俺達が契りを交わしてまだ数ヶ月。最近では10日に一回ぐらいは交わるようになったものの、向こうに戻って今と同じくらいしようものなら………氷雨の親父にぶっ飛ばされる。 「えー。俺は帰りたくないなー。お前と一緒に閨を共に出来ないじゃないか」  後ろから氷雨に抱きつくと、氷雨は困ったように笑った。 「しょうがないですよ。家に戻るとしても長くて1ヶ月程でしょう。その間は我慢ですよ、銀雪」  氷雨は宥めるように俺の頭を撫でる。帰るまでの道中はそこそこ長い。その間に思う存分やれば良いか。俺は渋々頷いた。 「……分かった」 「銀雪が分かってくれて嬉しいです」  子供を相手するように氷雨が俺の頭をくしゃくしゃと撫で続ける。それにムズムズしてたまらず押し倒すと、氷雨はされるがままに押し倒され俺に微笑みかける。俺達は流れに身を任せ、口吸いをするのであった。  それから上方にある氷雨の生国までの旅路は、穏やかなものであった。まあ何度か野宿をすることもあったが、そんな日は二人で身を寄せ合って眠る。そんな穏やかな旅は、氷雨の生国に入ると終わりを告げた。 「零────!!」  城下町に入ると、誰かが氷雨を呼ぶ声がする。前方から、蛍火が凄まじい早さで駆けてきていた。蛍火は確か、元服で名を改め、「秋也」と名乗っていたか。 「あ、秋也だ」 「本当だ。秋也、何があったんだろう」  氷雨と俺は何事かと首を傾げる。だが、俺は嫌な予感がし始めていた。  秋也は、氷雨と俺の前まで来ると青ざめた顔で氷雨を見る。 「お前の家が何者かに襲われた」 「え………………!?」  どういうことだ。確か、氷雨の家は上士で何人もの奉公人が居た筈。 「おい、秋也!! それはどういうことだ」  秋也はただ首を横に振る。 「分からない………しかし奥方と当主が襲われ、当主が重傷で……奥方はもう」 「母……上……が……?」  氷雨の顔は死人のように蒼白になる。氷雨は最後まで聞かずに駆け出す。俺はただ、氷雨の後を追いかけた。  氷雨が家に着くと何人もの奉公人が彼を出迎えた。 「零月様、よくぞご無事で………」 「父上の様子はどうなのですか!?」 「まだ………生きておられますが」  奉公人達は皆一様に顔に陰りがある。氷雨は草履を整えるのも忘れて、家の中に駆け込んでいった。  家に入った途端、噎せかえるような血の臭いがする。氷雨と共に氷雨の父親の部屋に近づくにつれ、その臭いは濃くなる一方であった。そして部屋の襖を開けると、そこには布団に横たわる氷雨の父がいた。死相は濃く、助からないことは一目瞭然である。 「父上!!」  氷雨はいつもの冷静さを失い、崩れるように父の傍に座る。 「父上、何があったのです。どうしてこのようなお姿に……」  目を瞑っていた氷雨の父であったが、氷雨の声で目覚めたのか。ゆっくりと瞼を開けた。しかし、答えたのは三十路の奉公人であった。 「千鶴です、若。あの男が賊を屋敷に引き入れ旦那様と奥方様を……」  それ以上は言えないのか、女は咽び泣いてその場に崩れ落ちた。 「零月……お前が無事で良かった……」 「何を言っておられるのですか父上……私は……」  動揺している氷雨の言葉を遮るように、氷雨の父は氷雨の手を握った。 「お前は優しい子だ。仇討ちなど考えず、お前らしく生きよ」  その声は慈愛と悲しみ満ちた声であった。俺は氷雨の父が子供にこれ程の慈愛を向けたところを、初めて目の前にした。今まで隠していただけなのか。それとも、死の間際に子供への愛情に目覚めたのか。そんなことを俺は知るよしもないのである。 「銀雪………零月を任せた……」  今まで疎ましがっていた俺に氷雨の父はそう言葉を託した。 「零月………お前がわしの子で誇らしかった………」  その言葉を最期に、氷雨の父は息絶えた。氷雨は呆然としたまま、亡くなった父親の手を握りしめていた。  母の遺体を見ても、氷雨は涙1つ溢しはしなかった。淡々と葬儀の手筈を整え、喪主としててきぱきと動く。その様子をあるものは立派だと褒め、あるものは薄情者だと陰口を叩く。葬儀用の白い着物を身に纏い、両親の棺桶が埋められていくのを見届ける氷雨の顔には一切の表情が無かった。  葬儀が終わって忌中に入ると、江戸へ勉学の為に戻ることは当分難しい。氷雨は50日間も部屋に籠らざるを得なくなった。氷雨は殆んど笑わなくなり、ただ学術書を読むばかり。友人である秋也が訪れないものかと思っている頃、ある者が蒼宮の屋敷に訪れた。 「久しぶりですね。氷雨……いや零月」  その来訪者は、氷雨のように青い髪と青い目をした男だった。長い髪を背中の辺りで纏め、衣服自体は貴族のような作りのもの。外見は少年と青年の中間ではあるが、その身体から零れる神気から察するにこいつは人ではない。その男を見て、氷雨は会釈した。 「お久しぶりです。…………青龍殿」  その名は京の都を守る神獣にして、平安の頃に名を轟かせたあの陰陽師の式神の名であった。 「青龍!? 何でそんな奴がこんなところに!?」  そもそも京から出て大丈夫なのか。驚きのあまり、俺が大声を出すと、青龍がムッとしたように此方を睨んだ。 「なんだ妖狐。やましいことでもあるのか」 「いや………無いが……」  俺が目を逸らすと、青龍はすぐに視線を氷雨に向けた。 「この度は誠にご愁傷様でございます。突然のことに何と申し上げれば良いのか……」  本気で悲しんでいるのか、その瞳には憂いのようなものが見て分かる。 「お気遣い頂きありがとうございます、青龍殿。しかし穢れなど忌み嫌う筈の四神である貴方が、わざわざ此処にお越しになられたのは何故なのでしょうか」 すると、青龍は1通の文を取り出した。 「薄氷(うすらい)から文を渡すように言われました。お受け取りください」 「あの子が………。ありがとうございます」  文を受け取った時、氷雨の目に陰りが現れた。何だ、知り合いか? そんな疑問をよそに、氷雨と青龍は近況報告程度の会話をするのであった。 「おい、妖狐。此方に来い」  青龍が帰る直前、俺は青龍に呼ばれた。 「何だ龍」  背丈は低いくせに、矜持は一人前ときた。それに無性に腹が立ったが、俺はそれを表に出さないように努めた。 「零月は両親が死んでから泣くことはあったのか」  何故そんなことを俺に訊く。 「いや………1度も無いが」  そう。両親を1度に喪っておきながら、氷雨は泣いていないのだ。ただそれは泣いていないというより………。 「ああ見えて、あの子は昔から我慢強い。だが、かなり危険な状態だろうな」  そんなことは俺だって分かっている。だが、両親を喪った氷雨に掛ける言葉など見つかりはしない。それがもどかしくて自分に腹が立って仕方がないのだ。俺は拳を握り締めた。 「ならばせめてお前が傍にいてやれ。あの子の支えになれるのはお前なのだから」 「言われなくても分かっている」  俺の返答を聞くと、青龍は僅かに優しげな目になったが、すぐに元の冷たい目に戻る。そして、青龍は京へと帰っていくのであった。 「氷雨、薄氷とは誰なんだ」  文を読み終わった氷雨に尋ねると、氷雨は悲しそうに笑った。 「元………弟ですよ。本家の養子になったのです」  そして氷雨はぽつりぽつりと話し始めた。京の都で陰陽師をしているのが蒼宮家の本家で、そこから分かれたのが今の氷雨の先祖らしい。しかし十数年前、本家で子供が生まれなくなった。そこで養子になったのが、氷雨の弟である薄氷であった。 「あの子が物心ついてすぐに向こうに引き取られたのです。僕は、泣いて僕の名を呼ぶあの子を引き留められなかった。……秋也と違って、僕は兄失格です」  文を握る氷雨の手は震えていた。俺はただ氷雨を背中から抱き締める。氷雨は俺の方を一瞥すると、身を預けるように目を瞑った。後で読ませてもらったが、薄氷の文は社交辞令のようでありながら、どこかぎこちない印象を受けたのであった。  五十日が経過すると、氷雨は城に勤めるようになったが、表情は暗くなっていく。その要因は、突然舞い込んで来た幾つもの見合いの話のせいによるものであった。氷雨は顔立ちは整っており、美人の類には入るだろう。それに、若いながらも家長であり若殿からも友人のように気に入られているので、将来的に出世する可能性も高い。氷雨の親戚は早く嫁を貰えと言うが、氷雨は苦しそうに断り続けていた。 「僕は何の為に生きているのでしょうか」  日が暮れて月が煌々と輝く夜、縁側で酒を飲みながら氷雨はぽつりと呟いた。そういえば氷雨が酒を飲むのはいつだろうか。 「どうした、氷雨」  氷雨側から言ってくれるまでただ寄り添っていたが、もう限界だ。そう思っていた俺にとって氷雨の役に立つ絶好の機会であった。 「みんな縁談の話ばかり持ちかけてくるのです。私は、嫁を娶る気持ちなどまだ無いというのに。最近では学問する意味すら分からなくなってしまいました」  思いつめた氷雨の顔は苦しそうであった。氷雨は酔っているせいか、泣き腫らしたように頬が赤くなっている。酒を少し飲んだだけで顔が赤くなる氷雨だが、今日はいつもの2倍も飲んでいるのだ。意識もふわふわとしているのか、瞳からはあまり理性が見受けられなかった。 「氷雨、どうしてお前は嫁を娶りたくないんだ?」  いずれ、お前は誰か伴侶を見つけるであろう。確かに、氷雨の元に舞い込む縁談は多い。それに俺は苛ついてはいるものの、一件も縁談を受けないというのは、今までの誰の期待にも応えてきた氷雨からは信じがたいことなので不安になるのだ。 「まだ………銀雪以外と愛し合うことなんて僕には考えられない……。今は君だけに傍に居てほしいのです。君以外を………僕は信じることが出来ない……」  酔っているせいか、それとも悲しみのせいか。氷雨の瞳は潤んでいた。  氷雨の両親を殺したとされる奉公人は、俺程ではないが氷雨とは仲が良かった。奉公人という立ち位置を自覚しながらも、氷雨を弟のように可愛がっていたし、俺と氷雨とその奉公人の3人で柿や桃を食ったりもした。そんな奉公人が両親を殺してしまえば、氷雨が人間不信になるのもしょうがないことであった。 「氷雨………言われずとも俺はお前の傍にいるぞ」  俺は、顔を覆って肩を震わせる氷雨を抱きしめた。人を愛せ、伴侶を得ろ。そんなことを今の氷雨に言うのはあまりにも酷なことだ。大切な身内を喪う気持ちは痛いほど分かる。俺が今出来るのは、お前の身を守り、傍にいること。そして愛することだけだ。 「銀雪……辛いのです……。寂しいのです……」  氷雨は俺の身体にしがみ付くと、嗚咽を溢した。今まで溜め込んでいた負の感情を吐き出すように、肩を震わせて泣き始める。 「安心しろ。俺が傍にいる」  そんな氷雨の背中を何度も擦る。そうしてやると、嗚咽は少しずつ小さくなっていき、泣き疲れたのか氷雨は俺の腕の仲で、すうすうと寝息を立て始めた。氷雨の目尻に残った涙を拭うと、布団に寝かせる。そして、氷雨の頬に口付けをする。 「おやすみ、氷雨」  泣き疲れるまで泣いたのならば、多少は気持ちも楽になっただろう。氷雨の言葉は嬉しかった。本当は、俺はまだ氷雨には伴侶をもらってほしくない。だけどももし氷雨の愛したい女が現れたのならば……。俺は受け入れられるだろうか。銀雪は泣きそうな顔で、眠る氷雨を抱き締めて眠った。  両親や皆の期待に応えるだけで満足していた私にとって、両親の死は足元を崩しかねない程の衝撃を与えた。この先何をすれば良いのかすら分からなくなり、親戚が見合いを勧めてくるのが苦しくて堪らなかった。  お家を守るのが家長の役割だ。だけどもそれは役目であって、したいということではない。すべきことばかりで、己の欲求は片手で数えられる程度しかない。  そして私に残った感情は銀雪への想いだけだ。彼が居てくれなければ私はとうに自害していただろう。   本当は結婚なんてしたくない。まだ女性を知らない私は女性を愛する自信がない。私はただ銀雪が傍にいるならそれでいい。  ……そんなことが我儘だって知っている。それでも私は……自分が持った感情に嘘なんてつきたくないと思ってしまうのです。  零月が目を覚ますと、目の前には男の眠る顔があった。そういえば、昨夜は何をやったっけ。酒を飲んだ後の記憶が曖昧だ。ぼんやりと考えながら、目の前の男を見つめた。銀色の髪が朝の光を受けて、きらきらと輝いている。まるで雪解けで光る雪のよう。そんなことを考えながら、そっと彼の髪に触れる。本性とは違って、さらさらとした髪の感触。それが零月の心を癒していく。零月は柔らかく笑って、銀雪の額と己の額を重ねた。  銀雪は零月と向かい合って朝食を食べながら、ちらちらと零月の方を見た。今まで苦しそうな顔だったというのに、今日は迷いが晴れたような表情をしている。昨夜泣いたのが良かったのか。 「銀雪、今日は仕事も休みですので出掛けませんか」 おや、休みの日は出不精な氷雨がそんなことを言うとは。銀雪は僅かに目を見開く。 「ああ、構わんぞ」  零月の提案に驚きつつも、銀雪は笑みを浮かべて頷いた。

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