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第一話

 誰かに愛される夢をずっと見ている。  こんな事、誰にも言えないし言いたくもないが。と、ルシアは目の前の鏡を覗き込んだ。  産毛一つ生えていない白肌の上に、薄紅をつけたような頬の血色は今日も健康的だ。  小さくも厚みのある下唇は潤い艶めき、細く主張しすぎない鼻筋も、その上の幅広の二重と長い睫も、どれも均等に揃っている。  空を閉じ込めたような淡い青色に一滴の黒インクを滲ませたような瞳は、どんな宝石を並べても勝るものはない輝きを放っていた。  ──ほら、今日も僕は、美しい。  口角を上げ笑みを作ると、完璧な自分が現れる。  ルシアは短く息を吐いて、部屋を出た。  早朝の階下で継母と鉢合わせる予定はなかったが、その背が見えて足を止める。無視するわけにもいかないと挨拶をしたが、彼女は無言で背を向けた。  微かに頷いたようにも見えたが、勘違いかもしれない。  どちらにせよ返事がないことを今更どうとも思わない。彼女に厭われているように、彼女を厭っている。それだけのことだ。  食堂からは朝食の支度がされているのか焼きたてのパンの香りが漂っていたが、ルシアはいつものように玄関へ向かう。  姿見で再度自身を映し、ローブや制服の皺がないことを確認する。 「不快な匂いがする。ろくでもないオメガの匂いだ」  微かに聞こえる継母の声を背に、ルシアは自宅を後にした。  発情期(ヒート)は、まだのはずだ。  門の前で停まっている馬車を確認しながら、ルシアは腕を上げ、すんと自身の匂いを嗅ぐ。  毎日風呂に入り身体も念入りに洗っているが、体臭が他人より強い可能性は否めない。  自覚はないが、そうであるならどんなに美しい容姿でも台無しだろう。  不安に駆られ、胸ポケットから香水の小瓶を取り出し、手早く手首と胸元につける。流行の香水だというが、確かに、春に漂う花蜜のような微かに甘い香りは、これまで香水に興味のなかったルシアもすぐに気に入った。  もっとも、これをルシアに贈った人物は、ルシアの好みなど考えもしなかっただろうが。  甘く爽やかな香りで沈んだ気分もいくらか上昇する。  気を取り直し、門を出た。  数人乗りの王立魔法学校専用の馬車には、幼馴染みのレオン・シュヴァリエが乗っていた。この時間の馬車に乗るのはルシアを含め、二人だけだ。  レオンを見ると、肩に掛からない程度の金髪は辛うじて手櫛で整えたというはね具合で、分厚く覆った前髪も斜めに固まっていた。  寝癖を直す魔法は至極簡単なはずだが、そんなことより魔道具いじりに時間を割いているのだろう。彼はルシアとは正反対に、自身の容姿には無頓着だ。  邪魔になる前髪など早く切れと幾度となく進言したが、素直に従う男ではないので、そういった注意をするのも早々に諦めた。  そもそもルシアもレオンに変わってほしいわけではない。  強者のアルファ男性でありながらどこまでも冴えない幼馴染みの存在は、ろくでもないオメガであるルシアの心を少しだけ軽くした。 「おはよう、ルシア」  ぼそぼそと覇気のない声で挨拶され、ルシアは頷く。  レオンはちらりとこちらを見ただけで、すぐに視線を外し手元の木箱に移した。 「その箱はなんだ? また訳の分からないものを作ってるのか?」  隣に腰を下ろすと同時に、馬車は緩やかに走り始める。  魔法で管理されているので、その動きは定刻通りだ。  社交辞令としての質問を投げかけたところでルシア自身、レオンのすることに興味はない。  何よりも三度の飯より魔道具いじりが好きな男だ。幼少の頃から一つも変わっていないので今更である。 「……物体転移、させたい」 「──へえ」  転移魔法は、数ある魔法の中でも最上位といってもいい。  レオンが持っているのは小さな小箱だが、その中には魔法石と転移させたい何かが入っているのだろう。  魔方陣なしで成功したら億万長者になるような発明だ。  当然、学生身分のアルファがそれを完成させるとは思えない。 「僕、匂うか?」  小箱に夢中になるレオンを尻目に、ルシアは心配を口にした。少しの間を置いたレオンが、ゆっくりと顔を上げる。 「……発情期?」 「ちがう」 「だよね。香水の匂いがする」  そうか。と頷く。アルファが言うなら間違いない。  ルシアの発情周期は今まで一度もずれたことないし、体調にも変わりはない。  ぼそりと応えたレオンの答えは予想通りで、ルシアは満足した。  馬車が学校に到着するなり、レオンを置いて早々に教室へと向かう。  すれ違う下級生がルシアを見るなり避けるように目を伏せ足早になる。上級生からは「ほら、女王様が来たぞ」と鼻で笑われ、同級生の一人はわざとルシアの肩にぶつかった。 「ああ、ごめんルシア! ──わざとだよ」  む、と眉根を寄せるルシアに同級生の男がおかしくて堪らないというように取り巻き達と笑い声を上げている。  ルシアは冷めた目で彼等を見つめながら答えた。 「ブスども、よくもまあ毎日僕にぶつかるな。その目は節穴か? それともわざと僕の気を惹きたくてやっているのか? それならば今一度鏡を見た方がいい。お前みたいな心身共に醜い男は僕の好みじゃないからな」  おおーと取り巻きが演技じみた大袈裟な声を上げるが、言われた張本人は涼しい顔をして、にやりと笑って続けた。 「誰がこんな自意識過剰の性悪オメガを相手にするかよ。お前なんかアルファどころかベータだって裸足で逃げ出すさ。──それに相変わらず、ひどい匂いだ!」  鼻をつまみ大声を上げた男に、わっと周囲が湧く。匂いのことで心臓が叩かれた思いをしたルシアは咄嗟に反応できず、それを尻目に彼等は満足そうに肩をたたき合いながら去って行った。 「性悪ルシア、敗北」──そんな嘲笑を置いて。  ──くだらない。  ルシアは前だけを見据え、周囲の冷たい視線を感じながら今度こそ講義室へ入った。  王立魔法学校は特殊能力、つまり魔力がある者達の学舎だ。  世界には大多数が魔力を持たぬ一般的な男女、ベータという種でしめられているが、極一部の男女に現れるアルファ、そしてオメガという種が存在する。  アルファは他の種族より優秀で体格にも恵まれ、魔力も多く持って生まれる。  一方、アルファを産めるのはオメガという種のみで、彼等は男女ともに子宮を持ち、子を儲けることができた。  体格は小柄で華奢な者が多いが、アルファ同様に魔力を持ち、魔法も使えた。  それだけではなく、オメガには思春期を迎えると発情期(ヒート)という周期的な生理現象がある。  アルファを誘う強力なフェロモンを出し、アルファとの交わりを強く望むものだ。女性の月経と同じように一定期間続き、期間中は不特定多数のアルファを誘い続ける。その時にアルファがオメガのうなじを噛むと、つがいが成立するという特殊な身体特徴があった。  端的に言えばつがいは婚姻関係だ。  つがいになると発情期はつがいのみが反応するフェロモンを出すようになり、更にその症状も軽減され、不特定多数のアルファを誘うこともなくなる。  オメガの発情期は本人だけではない問題だ。  対策としてアルファがフェロモンを一定時間防御する魔法や、近年では発情抑制剤という薬の開発もされた。  だが、魔法は鼻腔を塞ぐもので長時間使用できず、薬はフェロモンの分泌を抑えるが完全には消せない。  そのうえ発情抑制剤は副作用で一時的に魔力が封じられるという代物で、うなじを護る特殊なチョーカーをつけているオメガが魔封じ状態になるとその効力が無効化されてしまうため、抑制剤に至っては失敗とすら言われている。  ルシアの母は、アルファ女性だ。男爵家の次女で、爵位を継承せずオメガの父と結婚した。  強者であるアルファで優秀な宮廷魔道士として働いていたが、数年前に病死した。  気付いた時には手の施しようがないほど病は進行しており、高額な薬やどんなに腕のある白魔道士に頼んでも、治癒は不可能だった。  多忙な彼女とはあまり話せなかったルシアだったが、不器用ながらもルシアを愛してくれていたのは理解していたし、だからこそ母を失った後はしばらく何も手がつかないほど塞ぎ込んだ。  通常、つがいを失ったオメガとアルファの契約は、その時点で切れる。  うなじの傷跡は治療をすれば綺麗に消え、発情期も生殖機能が衰えていなければ現れる。  オメガ男性である父は、出産を拒否した身であったが、まだ四十代ということもあり母を失い再度発情期に悩まされるようになった。  つがいを持たぬオメガの発情期はひどいと死に至る。  父のように発情期が安定しないオメガは特に注意が必要で、ルシアが戸惑うほどの重い症状に、結局再婚をせがんだのはルシアからだった。  問題はそれだけではない。  オメガであるが故に魔道士の職に就かなかった父は、手先の器用さを生かし王都の中心街で仕立屋として働いていた。  だが魔法を使わずともいい職は魔道士ほど稼げず、ルシアの学費と一家を養うほどの給与は得られない。  魔法学校の学費は安くはない。その上父は勘当された身で実家を頼れず、母の実家も姉夫婦が継いで頼れない。  そういった面での不安も考えたのだろう。アルファが必要だと。  結局、彼は妻を亡くした一年後に、アルファの後妻を迎えることにした。  それが、ルシアを毛嫌いしているあの継母だ。  彼女が自分を嫌うのには理由がある。  継母の実子は五つ年上の、アルファ男性だ。  既に成人し親元を離れていた彼だったが、運の悪い事に偶然屋敷に訪ねてきた際ルシアと鉢合わせた。  ルシアはそれまで発情期を迎えておらず、年齢の割には遅いことに悩んでいた。  初めての発情期はいつどこで起きるとも知らず、年頃のオメガは皆怯える。  少しでも怠さや熱っぽさを感じたらすぐに自室に籠もり専用の魔法石を起動させなければ、誘われたアルファが部屋に入り込んでしまう。そんな教えを言い聞かせられていたから、ルシアとて油断していたわけではない。  だが、ルシアの発情期はよりにもよって彼の前で起きた。  初めて義兄に会うという緊張より、その圧倒的な存在感に気圧され、挨拶もままならないままルシアは茫然と彼を見上げていた。 『……くせえな』  深い青の瞳がギロ、とこちらを見下ろして、微動だにしないルシアを認識する。  あ、とか、う、とか上擦った声が自分からして、ルシアは初めて魔獣に食い殺される人の気持ちを理解した気がした。  ──でも、くさいってなんだ。僕、匂うのか? 『なんだこれは……おまえ』  ハッと気付いたときには男の長い腕がこちらに伸びている。身体中が熱くて、なんだか良い香りが男からする。  その腕に掴まれたら何もかもをなげうつことになるとどこかで思って、突然男が視界から消えて目を丸くした。 『──ルシア! お前発情期なのか! この馬鹿オメガめ! さっさと部屋へ行け!』  継母だった。  息子の頭を容赦なく殴り飛ばした彼女は、鬼の形相でルシアを一喝した。  その声に我に返ったルシアは、縺れる足をなんとか動かし、二階にある自室へ戻った。  階下で「目を覚ませアレス! あれはお前のものじゃないぞ!」「馬鹿なオメガのせいで人生を台無しにしたいのか!」と継母の声が聞こえていた。  その言葉のおかげか、ルシアは自我を失う前に専用の魔法石も起動できて、自室に閉じこもることができた。  初めての発情期は想像以上に苦しく辛い時間だったが、なんとか乗り越えられたのだ。  以来、継母はルシアを見る度に「馬鹿オメガめ」と貶すようになり、発情期が近いと「空っぽの頭でよく考えろ。お前のせいで多くのアルファが迷惑を被る」と嫌味をよこすようになった。  父には継母からの言葉を伝える事はなかったが、時折ルシアの手を取り「……悪いひとじゃないんだよ」と寂しげに言う彼を思えば、大抵のことは我慢できた。  一年、つがいを亡くし苦しんだ父だ。今彼が幸せであるか確かめるのは怖かったが、彼女と二人でいる父は少なくとも辛そうではない。  それに、ルシアは既に十八を過ぎ、二年後には学校を卒業し独り立ちする予定でもある。  ほんの少し、辛抱すれば良いのだ。

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