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第二十四話

 それから、毎日小箱を開けるのが日課になった。  どうやら一定時間蓋を開けると鏡が変わる仕組みのようで、ある日は曇り空だったり、晴天だったり、時には花びらが散る空も映し出され、雨空にもなった。  ルシアはこれが本物の天気と少なからずとも連動していることに気付いた。  時折雨が降っていても曇り空が映し出されたこともあったが、空模様が真逆だったことは未だにない。  一体どういう仕組みなのか分からなかったが、レオンのことだ。それはもうかなり凝って作ったのだろう。  しかしルシアが毎日箱を開ける理由はそれだけではない。  一番は、浮き上がる文字を楽しみにしていたからだ。  ──ルシアは賢い。心配しないで。  ──今日も、頑張って。  ──大丈夫。ルシアはいつも綺麗で可愛いよ。  ──笑って。  ──そう、すべてうまくいくよ。  ──そのままでいい。完璧だから。  蓋を開け、鏡に空が映し出されると、数秒後に左下に文字が綴られていく。それが一分ほど続くとまた鏡へと変化する。  まるで一日の始まりに励ましを貰っているようで、ルシアは再度自分が映し出されてようやく出勤する、なんてルーティンを自然と組んでいる。  今日の言葉は「そのままでいい。完璧だから」だ。  思わず口角を緩め、頷きながらローブを羽織り、家を出た。  あのメッセージを見るだけで職場での失敗を引きずるのも馬鹿馬鹿しく感じるから凄い。  昨日は治療魔法の手順について叱られ、その前は患者の記録を読み飛ばし危うく間違った治療魔法をする寸前だった。  見習いといえども間違いは重大なものに繋がる職だ。許されることではない。  完璧を目指すルシアとしても己の不甲斐なさに落ち込んでいたが、鏡の文字を見ると、くよくよしていても仕方がないと思える。  彼は、何かにつけて自信があったあの頃の自分を知っていた。  元々後ろ向きな考えはしない。胸を張って生きてきたし、学生時代はなんでもできると信じていた。  傲慢だと言われていた所以はそこにあったが、社会に出て世界を知り現実にぶち当たると、自分はなんてちっぽけなのだと気付いてしまう。  それでもレオンの作ったあの箱があれば、そっと背中を押されているようで、一人でも生きていける気がした。  ──実際は、今もレオンに助けられているから語弊があるが。  あの空と文字は恐らく、魔法石を使用している。メッセージはあらかじめ設定されており、開けると無作為に流れる仕組みのようだ。  市場には出回っていない、世界に一つだけのもの。  毎日小さな箱を抱え、校内を歩いていた彼を思い出す。  これはきっと、彼の集大成だろう。  それを惜しみなく贈ってくれたレオンの愛を感じ、嬉しくて、そして少し寂しくなった。  帰宅は大幅に遅くなった。  疲労困憊で帰り、近くの食堂で持ち帰ったシチューとパンを胃に押し込んでさっさと風呂をすませる。  濡れた髪は魔法で乾かし、休む間もなくソファに座り、治療の専門魔術書を開き予習と復習に励む。  時間はない。  寝る時間は大幅に減り、風呂は随分と湯船に浸かっていない。だが、不満はなかった。  夢だった製薬研究所には入れなかったが、今の仕事にはやりがいを感じている。  元々教師からには白魔道士に向いていると言われていたし、誰かを癒やし治療する行為は結果として薬への理解も深まるので楽しい。  オメガ診療所故に患者はオメガだけだが、いつかはすべての人の助けになれたらいいと思う。  それには様々な経験を経て、つがいになる相手を探さねばならないが、今は置いておこう。  描いていた未来とは少し違う道になったが、仕事は好きだし、できれば続けたい。  一息をつき顔を上げたルシアは、視界の隅に何かが動いた気がして目を留めた。  チェストに置かれた、レオンの小箱だ。  朝に蓋を開けたまま出てしまったのか、箱は開かれていた。  ルシアはソファから立ち上がった。  遠目からではよく見えなかったが、どうやら鏡ではなく空が映っている。  きらきらと何かが光って見えたのは、よく見ると星のようだった。  夜空だ。  欠けて半分以下になった月と、無数の星が小さな箱に張り付いている。  確かに、今は夜だ。  ルシアは驚いた。  毎日蓋を閉めていたから、帰宅後に箱を確認したのは初めてだった。てっきりあのメッセージが浮かんだ後は鏡に戻るのかと思っていたが、開けたままだと違ったのか、それとも。  そっと箱に触れ、小さな星空を眺める。  強いほど煌めくあの星は、橙色に光り、その隣は金色。瞬きよりも早く光が揺れていて、写真ではないことを物語っていた。  そこへ、ふっと左下に白い文字が浮かび上がる。  ルシアは目を丸くした。  ──傍にいさせて。  文字はしばらくするといつも通りに消え去った。そのうちに凍り付いた自身が現れ、星空が鏡に戻った事を知る。  ルシアはその文字を頭の中で反芻しながら、ソファに座り込んだ。  これは、無作為のメッセージだ。  箱を作っていた当時のレオンが何通りもの言葉を魔法石に組み込み、何らかの反応で浮かび上がるようにしたものだ。  だが、今の言葉は何だ。  どきりと鼓動が脈打ったが、自分を鎮めるように、ルシアはもう一度箱を確認する。しかし箱は鏡に戻り、空が映し出される様子はない。  あの頃のレオンは、一度だってそのような事をルシアに言ったことはなかった。  だが、発情期に入れば必ず傍にいてくれたし、学業の手助けもしてくれた。気がつけば空気のように隣にいて、愚痴や悩みや弱音をただ受け入れてくれたように思う。  幼馴染みで、友人だった。だから……。  ルシアは両手で顔を覆い、浮かんだ考えを打ち消した。  卒業後も関係を続けようとしたルシアを拒絶したのは彼だ。そんな都合のいいことは許さないと、そう言っていた。  あの発言はもっともな意見で、ルシアも反省した。  いくら恋に気付いたからと言って、結局また、レオンを利用しようとしていたと。  だがレオンはもしかしたら、元の幼馴染みに戻り、健全な関係を望んだのかもしれない。  元に、戻れただろうか。  ルシアは否定する。  そう望んだとしても、結果としてこうなっていた。  発情期が来る度、触れ合えない仲に不満を持ち、性懲りもなくレオンを誘うだろう。不快に思わせるだけでなく、彼の傍にいるユーゴや、他のオメガにも嫉妬して、いつかは顔を合わせることさえ辛くなる。  だから、これで良かった。  良かったんだ。  ルシアはそう自分に言い聞かせると寝室に向かいベッドに潜り込み、明かりを消して目を閉じた。  それでも、レオンの小箱を確認する日々は変えられなかった。  ──今日も、頑張って。  窓の外は曇り空で、箱の鏡も同じ空だ。分厚い雲に雨が降るのかもしれないと思いながら、いつものようにレオンの言葉を背に仕事へ向かう。  毎日のメッセージを楽しみにしている自分は、端から見たら未練がましい男なのかもしれない。  最後に伝えようとした言葉のせいで友人にすら戻れなくなり、それはすべて自業自得なのに、昨日のメッセージを読んで少しでいいから顔を見たい、なんて思っている。  でも、彼がもし他のオメガやユーゴを抱いていたら、きっと許せなくて会ったことを後悔する。  それに、あのメッセージはレオンの過去の気持ちだ。今はもうルシアの事をそんな風に思っていない可能性もある。  冷静になれ。  会えなくていい。  ルシアは強く目を閉じ、患者の治療にあたった。  帰宅し、食事と風呂を終え日課の魔術書を広げる。  いつもと違うのはテーブルの上に、レオンの小箱があることだ。  一日中考えないようにしていたのに、どうしても気になり、結局小箱を手元に置いている。そんな自分が嫌になるが、気になるのだから仕方ない。  鏡は先ほどから魔術書を広げるルシアを映し出し、変化はない。  ちらちらと何度となく確認していると、日付が変わる前に、鏡が夜空に変わった。  確かに、今日は星がない。朝から小雨が降り、帰る時も星は見えなかった。  小箱の中の鏡も雲に覆われ、薄闇が広がっている。  息を呑んで注視していると、予想通り文字が浮かび上がった。  ──ルシアをずっと想っている。 「……っ」  その文字を消えるまで見つめたあと、知らずに頬に熱いものが流れていった。  なんて、なんて残酷な男なのだろう。  嬉しさと悲しさに襲われ、心がぐちゃぐちゃになる。  ルシアはそんな自分を抑えるように、両手で顔を挟み、深呼吸をした。  優しい男だった。  自分勝手なルシアに呆れながらも、なんだかんだ手を伸ばしてくれて、大事に想ってくれていた。かけがえのない友人で、幼馴染みで、最高の発情期相手(パートナー)だった。  恋をして、つがいを望んで、結ばれる将来を夢見て。  実りはしなかったが、それでもずっと支えてくれた大切な男だ。  今でも、一人ベッドで寝ているとあの腕を思い出す。  口づけを、大きな掌を、優しく髪を撫でてくれたあの長い指を。  忘れなければと思うのに、忘れられない。  忘れたくない。  しばらくそうしていたが、ルシアは思いを振り払うように立ち上がった。  小箱を手に取り、元の場所へ戻そうと足を踏み出す。  その拍子にカチッ、と中で冷たい音が鳴った。思わず動きを止める。  箱を持ち上げると、夜空はまだ映し出されている。  鏡に戻るまで長い気がしたが、気のせいかと思った次の瞬間、金色の文字が浮かび上がった。  それは、一文だけではない。  ──会いたい。  ──ルシアが、大好きだよ。  目を見開く。  ──俺のすべてはルシアだけ。  ──傍にいて。  ──会いたい。  ──ルシアを、愛している。  文字は次々と現れ、どれも数十秒足らずでかき消えた。  一つ一つの文章に小さな数字が飾りのように張り付いていて、次にその意味を理解したルシアは、思わず声を上げた。 「レオン……っ」  これは、無作為のメッセージではない。  この箱はただの魔法石ではなく、繋道石で作られていて、数字は日付を意味している。  レオンは、昨日も一昨日も三日前も、ルシアに言葉を送っていたのだ……!  それが分かった瞬間、ルシアは無我夢中で小箱を掴み、上下左右をくまなく調べた。  繋道石を利用した魔道具なら、こちらからも反応を送られるはずだ。  シリルに貰ったものと同じように、対になっているはずだ。  先ほど持ち上げた時、中で何かがぶつかり合うような音がした。  焦り、震える指で入っていたブローチを取り除くと、小物入れの部分をそのまま上に取り外すことができた。  乳白色の魔法石が三つ、並んで置かれていた。  触れると左右の二つは魔力を帯びて、少しだけ温かい。レオンのメッセージに反応したせいだ。だが、中心の石だけが冷えていて、ルシアは迷わずそれを手にした。  縋るように握りしめ、ありったけの思いを口にする。 「会いたい……っ。会いたい、レオンっ!」  繋道石がほんのり温かくなり、淡く光った。  床にへたり込んでいたルシアはその反応を食い入るように見つめた後、はじかれたように走り出した。  靴も履かず、勢いのまま部屋を出て、そうしてすぐに、同じように焦った表情の男を見つけ息を呑む。  アパートの廊下の奥に、レオンが立っていた。  ルシアは走った。  同じように大股歩きで近付くレオンの胸に、迷いなく飛び込む。 「レオン……!」 「っ……ルシア」 しっかりと抱き留められたことに胸が熱くなり、愛しさが溢れる。 長身の男を仰ぎ見ると、彼もまたルシアを食い入るように見つめていた。  会いたかった。会いたかった。  寂しかった。  この男を、愛している。  言葉もなく、ただ、確かめるように二人で互いの顔を確認して、そうして幻ではないことを証明し合うように強く抱き合う。  背に回された力強い腕と、広い胸を苦しいほどかき寄せて互いの鼓動に耳を寄せた。 「言って、ルシア」  どれくらいそうしていたのかは分からない。二人がようやく目を合わせると、涙目のレオンが、ルシアの頬に手を添えて囁いた。  この恋は、自分だけのものではない。  寂しくて切なくて、それでも愛を捨てられずにいたのも。  怒濤のように流れたあの文字は、レオンの本音だ。  毎日ずっと、彼は紡いでくれていた。  正直に、すべてを。 「言って」  涙が伝う。  泣きながら、ルシアは精一杯、微笑んだ。 「お前が好きだ、レオン」 「もっと」 「好きだよ、レオン」 「……もっと」 「お前だけを、愛している」 「……っ」 「だから、恋人になってほしい。そしていつかは──」  つがいにしてくれ。  ぎゅうっと力を込めて抱き寄せられる。その背に腕を回し、ルシアは愛する男の香りに包まれ目を閉じた。 「うん。──俺を恋人(つがい)にして、ルシア」  ルシアの部屋に戻った二人は、片時も離れたくないという気持ちのまま、唇を吸いあい、互いの服を剥ぎ取った。  もつれ合うようにして寝室になだれ込み、晒した素肌に手と舌を這わせる。  レオンが魔法で潤滑油を作るのを見て、ルシアは初めて自分が発情期ではないことに気付いた。  驚愕した。フェロモンの衝動とは違う、心の衝動があるということを今、初めて体感したのだ。  この男と心も体も隙間なく繋がって、一つになりたい。  ただ触れあって、体温を、愛を感じたい。  何度も愛を囁く幼馴染みの顔を見つめながら、同じように愛を紡ぐ。  喘ぎ、溺れ、最奥まで突き入れられても、それを欠かさなかった。  愛し愛され身も心も一つになる奇跡を、ルシアは初めて感じていた。  行為を終えても、頭は冴えて眠気は来ない。  横を見ればレオンも同じようで、先ほどからルシアの手をぎゅっと握っては放してを繰り返している。 「ふったのはルシアだ」 「いいや、お前だ」  例えば、繋道石でレオンにメッセージが届いたとして、レオンはどうやってあの短時間で来られたのかと問えば、「無詠唱で魔方陣なしの転移魔法を習得した」と返答した。  転移魔法は基本的に知らぬ場所へ飛べぬはずだと追及すれば、もうずっと前に、ソアンからルシアの就職先を聞き出していて、定期的に様子を見に来ていたと吐いた。  それから、小箱のメッセージは過去六日間までは遡れること、毎日朝晩欠かさずルシアにメッセージを送っていたこと、今も昔もルシアだけを愛していること。  レオンはそんな事をぼそぼそと呟いて、伝わっていなかった事に驚いていた。 「あんな風に話を遮られたら、何も言えなくなるだろ」 「もう用済みだと言われると思った。だって、あの男はなに?」 「はあ? お前こそ、好いた相手はいないと言っていたのに、ユーゴと出掛けていたじゃないか」  思い出すだけで腹立たしいと言えば、同じようにレオンも不満を吐露する。  過去の自分たちに文句を言い合い、それなのに手と手を重ね合わせ、確かめるように力を入れては外して、そんな事を繰り返している。  疲労に横たわりながらカーテン越しの夜明けを感じ、明日の──正確には今日の、仕事を思えば後悔すると分かっていても、愛しい人を前にするとずっとこのままでいたいと思う。  これまでの疑問や不満を全部口にしても、きっとこの先も、些細なことで互いの心は揺れ、不安を感じるのかもしれない。  それから、思わず二人は顔を見合わせて笑った。  ひとしきり笑い合ったあと、互いの唇を合わせる。  もうどう足掻いても、気持ちはおなじで、通じあえている。  隠す必要もないと、心の奥底の本音を曝け出している。  恰好悪いな、とルシアが言うと、レオンがボソボソと呟く。 「ルシアは綺麗で格好いいから、俺は選ばれないと思った。選んでくれるはずがないって」 「……お前の悪いところだ。やってもないのに、いつもできないと決めつける」  鼻で笑うルシアに不満げに、レオンが繋いだ手に力を込めた。 「ルシアがいない世界なんて、意味がない」 「……レオン」  大袈裟な男だと思ったが、その真剣な眼差しを見れば、誇張ではないことを読み取れる。  思わず、ルシアは笑みを引っ込めた。  僕だって、似たようなものだ。 「なら、言うことがあるだろ」  だが、それを伝える事はせず、ルシアはレオンの頭を抱え込んだ。綺麗に整えられた金髪を、宥めるように撫でる。 「ルシアを愛している。俺だけのものになって。俺を傍に置いて。他を見ないで」  思わず口角が上がる。  取り繕うこともない、素直な言葉。 「今日から僕はお前のものになり、お前は僕のものだ」 「うん」  囁いたルシアに嬉しそうに、レオンが頷く。  唐突に、奇跡とはこのようなことを言うのではないかとルシアは想った。  愛した相手から愛される経験は、きっとこの先もあるかないかの確率だろう。  うなじを噛むとか、つがいだとか、そんなもの本当はどうでもよかった。  発情期だとか、そうではないとか、そんなもの、些末なものだ。 「気付かなかったんだ。ずっとお前が傍いてくれて、僕は幸せ者だったこと」  これほどの愛を与え続けてくれた、レオンと、そして自分に。  訳もなく泣けてきたが、ルシアは誤魔化すように鼻を啜り、レオンの額にそっと口づけた。 END

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