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第二十三話
◆
最悪だ。
ルシア・コレットは火照りとふらつきに襲われながら、壁にもたれかかっていた。震える手で胸ポケットから繋道石を取り出す。
朝から妙に身体が重かったが、連日の疲れからかと気にとめなかった。
なんのことはない、それは疲れではなく、一番懸念すべき状態だっただけだ。
身体中が熱く、体温が上昇しているのが自分でも分かる。
発情期だ。
細心の注意を払うべき事柄を、忙しさを理由に無視した軽率な自分に嫌気がさす。
このままではまともに帰路につくこともできない。いくら道を挟んだ向こう側の建物だと言っても、そこは王都中心街の一角で人の往来も多い。
くそ、と悪態をつきながら、ポケットに忍ばせていた丸薬を取り出し、口に放り込む。
そうして握りしめた繋道石へ震える声で「すぐに来て」と囁いた。
「大丈夫かい、ルシア」
「……ごめ、ん」
ラバトリーの個室に閉じこもっていると、ドアをノックされた。
時間にして一分もない。
ルシアが鍵を開けると、白金の髪をした甘い顔立ちの青年が立っていた。
漆黒の長いローブを羽織り、銀細工のブローチが胸元で煌めいている。見慣れぬ黒い手袋をはめており、仕事中だったのかと申し訳なく思うが、すぐにそんな事はどうでも良くなった。
男の甘い匂いに身体が疼く。
これはオメガの本能による反応で、対する男はアルファだ。
しかし彼が本能に屈した様子は一切なく、縋り付くルシアの身体を当然のように引き寄せた。
個室から連れ出され、もう一度謝罪する。
彼を前にすると、益々歩けそうにもなかった。既に股間は熱を持ち、下腹部の奥がじんじんと痺れている感覚がしている。
欲しい、欲しい。
それはひどい渇望で、横抱きにされただけで声を漏れるほどだ。
ルシアはそれでもなけなしの理性で唇に歯を立てながら、欲望に抗う。
これは本能故の反応だ。この男に抱かれるためではない。
シリル・アンジュールは約束通り、ルシアの危機的状況に駆けつけてくれた。
予期せぬ発情期に入ったルシアからの呼び出しを受け、颯爽とルシアの勤める職場へと転移してきたのだ。
「こんにちは。お忙しい中すみません。この通り、ルシアの発情期が来ちゃったので、連れて帰りますね」
大股歩きでラバトリーを抜け出したシリルが、近くの部屋で忙しなく仕事をしていた白魔道士に爽やかな笑顔で伝えた。
抱えられたルシアは既に吐息も荒く、その衝動に耐えるのに必死だ。
ルシアの発情期は不安定で、重い。だが何かあれば助けになる人物がいる。
あらかじめ伝えられていた上司の何人かが、突如現れたシリルに驚きながらも了承した。
彼等が頷くのを見届け、シリルは再び廊下に戻ると、音もなく転移魔法を使った。
ルシアの部屋は、小さなアパートの一室だ。診療所の寮で、オメガ男性のみ住める。
慣れた様子で部屋を移動した彼は、すぐさま寝室に向かいルシアをベッドへ寝かせた。
「すまな、い」
「気にしないで」
多忙な身でありながら、見返りもなく助けてくれる彼には感謝しかない。
だがアルファである彼を前にすると抱かれたいと身体が疼く。
心は違うが、それも長くはもたない。
理性を奪うその衝動をシリルも分かっているのだろう。
ルシアと目を合わせると、安心させるように頷いた。
「きみは死なない。だから、頑張って」
「……うん」
「じゃあね」
ごめん、と何度も謝るが、シリルはただ微笑んでそこから消え去った。
男がいなくなり、ルシアは吐息混じりに呪文を唱える。設置された専門魔法石を起動させたのだ。
こうしておけば、抑制剤で微量になったとはいえ、フェロモンに誘われた他のアルファが部屋に入ることはできない。
シリルはアルファだが、ルシアの呼び出しには必ずフェロモン防御の魔法を使用してから会いに来る。
彼にルシアのフェロモンが効かないのはそのためだ。
問題はこれから数日間、ルシアは孤独な発情期と戦わなければならない。
抑制剤で多少は症状が軽くなるが、気が狂いそうな渇きと疼きに四六時中苛まれ、すべてのアルファを望んでしまう思考に陥る。
それはつらく長い、苦しいだけの時間だ。
ルシアは膝を抱え、ベッドに蹲った。
発情期の間隔が益々不安定になったのは、レオンというパートナーがいなくなってすぐのことだった。
精神的なものが一番大きいと勤め先の診療所に言われ、同じような症状で苦しんでいる患者にも会った。
あの日、レオンの誕生日に思いを伝えに出向いたルシアを待っていたのは、今まで見たことのないほど感情的にルシアを拒絶した、レオンだった。
彼があれほどまでに自分を憎んでいるとは知らず、馬鹿な事をしたと今でも後悔している。
──これからは、少しずつでいいから、恋人として付き合っていかないか。
用意していた言葉は言えずに終わった。遮るようにして「そんな都合のいいことは許されない」と言われてしまえば、頷くしかない。
確かに、体よく傍にいたアルファとして無理にパートナーになってもらった。
レオンは常にルシアを最優先してくれて、根気よく発情期に付き合ってくれていた。
いくら好いた相手がいないからと言っても、彼自身、なんの得にもならぬ事だったのに。
だから、感謝こそすれ、責める気持ちはない。
大人になったレオンは髪を切り端正な顔立ちを露わにし、年下の生徒達からの視線も集めるようになっていたし、現にユーゴが傍にいた。
自分だけのものには、できない。
できなかっただけのこと。
けれど、あの日はさすがに傷ついて自棄になった。
自室に戻り、すぐにレオンが置いていった魔方陣を消し、シリルを呼び出して今後のことについて話し合った。
実はあの日、希望していた王立製薬研究所からの不採用通知が届いたのだ。
ひどく落ち込んだし、一方で受からないと踏んでいたオメガ専門診療所の採用が決まり、なんとか気持ちを切り替えようとしていた。
レオンに振られたことをシリルに告げると、「そっか」と眉尻を下げて頷いただけだった。
揶揄いも慰めもなかったのは、ルシアを思ってのことだろう。
大人である彼の気遣いに感謝しながら、本当に発情期が来たら呼び出していいのか確認すると、「当たり前でしょ」と笑った。
「俺の事どう思ってるのか知らないけど、いたいけな友人を見捨てるような男じゃないよ」と続けた彼に、それならばとお願いしたのだ。
「パートナーを失った僕は、いつどこで発情期が来るのか分からなくなった。匂いで気付いてくれるアルファも近くにいないし、いくら診療所がオメガ専用であると言っても、フェロモンをまき散らすわけにはいかない。だから、僕が貴方に連絡するときは必ず発情期であると思って対策してほしい。そして僕を家に連れ帰ってくれたら、いいんだ」
「それだけでいいの?」
ルシアはシリルの意図が分からず、首を傾げる。
すると男は笑みを深くして初めて揶揄うような声音を出した。
「俺はアルファだから、きみの疼きを鎮めることができる。残念ながら仕事があるから四六時中共にすることはできないけど、合間合間に様子は見に来るし、終わるまでちゃんと責任も持つ。ただ、俺の方はフェロモン防御魔法を使ってるから、きみを満足させられるかどうかは分からないけどね。それでも少なくとも、死ぬことは」
「抑制剤を飲めば、死ぬことはない。だろ?」
ルシアはシリルを見上げた。
「貴方にパートナーになれと頼むつもりはない。ただ、連れて帰って欲しいだけだ。当然、貴方にも都合があるだろうし、できるだけでいい」
言いながら、ルシアはもう二度と誰かに、パートナーになってくれ、と頼まないだろうと確信していた。
以前そう言って関係を強要したレオンを今でも想っているし、今は独身であるシリルも、いつかは愛する人間のためだけに時間を使うはずだからだ。
本当なら誰にも迷惑をかけず、生きていけるのなら、それに越したことはない。
抑制剤は完全にフェロモンを消せず、チョーカーの魔力をも失う。
シリルほどの魔道士ならばフェロモン防御魔法など普段から駆使しているだろうし、彼自身ルシアにそういった興味がないことは分かっているので、うなじを噛まれる心配もない。とはいえ多忙で偉大な魔道士でもある彼に頼るのは心苦しい。
しかし他に頼めるような相手もおらず、苦渋の決断だった。
そんなルシアにシリルはそれ以上何も言わなかった。
手助け自体は息抜きになるとかなんとか言っていたが、本心は分からない。
事前に付属の寮に入ることを希望していたので、早々に荷造りを終え、引っ越しをした。
診療所で働くと言うことは、オメガにとって狭き門の、白魔道士になるということだ。
研修はすぐに始まる。
卒業式当日に、予期せぬ発情期を迎えた。
一月も経たず発情期が来たのは初めてで、混乱しながら咄嗟にシリルを呼び出せたのは幸運だった。その日は一人で一般馬車に乗り学校へ向かっていたので、中には他の乗客の姿もありひどく焦った。
あの中に一人でもアルファがいたなら、違う人生が待っていただろう。
馬車の中にはベータの男性が二人乗っていたが、突如現れたシリルに驚いてはいたものの、特に騒がれることもなくルシアは寮へとんぼ返りしたのだ。
最後までレオンと顔を合わせず学校を卒業したことに、後悔はないと言ったら嘘になる。
うまく笑う練習だってしていた。卒業おめでとうと言いたかった。
ジュリエットから渡されたレオンからの贈り物の礼も言いたかったし、新たな門出を祝う準備もできていた。
恋に破れても、大切な幼馴染みだ。
今まで通り傍にはいられないが、せめて最後に会いたいという気持ちもあった。
結局覚悟していた別れもできず、今日に至るが。
五日間の苦しみは抑制剤の効果もあり、死を恐れる事はなかった。
だが狂おしいほどアルファを求める反応は変わらなかったし、過去に傍にいてくれたレオンを望み幻覚まで見て魘され、ひどい目にあった。
それでも、今はまだレオン以外は考えられない自分がいる。
離れてみて、いかにレオンを好きだったのか、思い知らされている。彼のいない二度目の発情期も、結局すべてレオンの記憶に溺れ、一人慰めたほどだ。
振り返れば、幸運だった。
レオンはルシアを大切に抱いてくれていたし、すべてにおいてルシアを優先していてくれたように思う。
発情期明けの気怠い身体をソファに投げ出しながら、ルシアは金髪の幼馴染みを思い出し、その切なさに涙ぐんだ。
念の為、週明けまで休みを入れ、体調を整えた。
通勤は数分。職場は驚くほどに近い。
診療所は二階建ての白レンガで作られた建物だ。意外なことに中は広々としていて、コの字型の作りになっている。
中庭では、日が出ているうちは多くの患者が散歩に出たり面会者とベンチに座り談笑したりしていて、あまり緊迫した雰囲気はない。
オメガ専用の診療所ということもあり、勤めているのは白魔道士のオメガが大半だ。
時折既婚のアルファが手伝いに来るが、頻繁ではない。
ルシアは見習い白魔道士として日々慣れない診察と治療に励んでいる。王都中心街の診療所ということもあり、毎日が想像以上の忙しさだった。
予期せぬ発情期で休みはしたが、泣き言を言ってはいられない。
鏡に映った蒼白の自分を見て、活を入れるように頬を両手で叩く。
髪型も、ローブも中のシャツも綺麗だ。
少し体重が落ちたが、慣れればすぐに戻る。
発情期ならではの情緒が不安定になるのも、きっとそのうち慣れる。
ルシアは自身にそう言い聞かせるように鏡に向かい笑みを作った。
洗面所から出て鞄を持つと、ふと小さな小箱が視界に入る。
チェスト上に置かれたそれは、レオンからの贈り物だ。
彼の手作りの小物入れは開くと鏡があり、真正面に向いた状態で蓋が止まる仕様になっている。
ジュエリーボックスに遜色ない作りのそれは、そういうものに無頓着だった彼が自分を思い、このような物を作ったのだと知って、嬉しかった。
ルシアは小箱に近付き、蓋を開けた。
中にローブを留めるブローチがいくつか入っている。就職してから一度もブローチを変えていなかったのを思い出し、たまには他のものにしようと考えたのだ。
「……ん?」
きら、と鏡が光沢を帯びた気がして、指を止める。
よく見ると鏡はうっすらベールをかぶったように曇っていて、戸惑う自分を映し出している。
訝しげに顔を寄せると、その画が変わった。
瞬く間に鏡が、晴れの青空になったのだ。
ルシアは息を飲んだ。鏡であったはずのそこは切り取った空に変わり、ちぎれた雲が遠くで泳いでいる。
そう、写真ではなかった。雲が、動いている。
驚いて凝視していると、今度は左下に文字が浮かび上がる。
──大丈夫。
──ルシアは、いつも綺麗で可愛いよ。
手に持ったブローチを取り落とした音で、我に返る。
「……レオン」
彼は、魔道具を作るのが好きだった。ずっとそれに明け暮れていて、きっと今もそういう仕事に携わっている。
こみ上げた熱いものを必死に飲み込んで、ルシアは笑った。
これだけのものを作り、ルシアに贈ってくれた。
恋には答えてくれなくとも、それはきっとレオンの愛情に違いなかった。
ルシアは鏡に浮かび上がった文字を何度も読み直し、それ以上画が変わらないことを確認すると、ブローチを拾い小箱の蓋をそっと閉めた。
自分とは形が違うだけで、大切にされていた。
それだけでも、心が温かくなった。
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