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第二十二話◇レオン

 全科目の履修が済んでしまえば、学校へ行く用事もほとんどない。  おかげであれから校内でルシアに会う事はなかった。  彼の口から別れを切り出されるのが怖くて、見かけてもきっと逃げていただろう。  しかし当然ながら、この状態のままでいることはできない。卒業まであと二週間もなく、ルシアの発情期はその後の休暇中にやってくる。  近頃は彼の匂いも嗅いでいないから曖昧だが、そういったことも含めてルシアと会わないといけない。  だから、ルシアが屋敷に来たことには心底驚いた。  部屋に閉じこもっていたレオンはいつものように使用人があっさりとルシアを通していたのにも気付かず、扉を開ける音でその存在を目にして数秒、固まった。 「なんだ、相変わらず散らかしてるな」  積み上げられた魔術書に、失敗作の魔道具たち。机に向かい無詠唱呪文の基礎について調べていたレオンは突然のルシアの姿に慌てて立ち上がる。  そんな様子のレオンに首を傾げながらも、ルシアはいつものように微笑んだ。  だが、どこか元気のないそれにレオンはすぐに気付く。 「……ルシア」 「レオン」  一度目を逸らされ、そしてすぐに見つめ合う。  ルシアはどこか緊張しているようで、知らずレオンも空気が張り詰めていく感覚を肌で覚える。  嫌な予感がした。 「もうすぐ、卒業だな」  静かな、声。  レオンは気付いた。  ルシアは、二人の未来について話し合いに来ている。 「だから……その、このままじゃ駄目だと思って」  ──駄目だ。  聞きたくない。  幸せだった日々が壊れてしまう。すべての世界が、崩れてしまう。 「なあ、これからは、」 「嫌だよルシア……っ」  突如声を張り上げたレオンに、ルシアが目を見開いている。  レオンは彼に向き直り、感情的にならぬように息をつき、短くなった前髪を掻き上げた。  ピリピリとした痛みが頭皮に走るのを感じると、少しだけ理性が戻った感覚がする。  だが、渦巻く感情は紛れもない怒りだ。  レオンは続けた。 「そんな都合のいいことは、許されない」  怒りと焦りで語気が強くなり、これ以上にないくらいの張りのある声が喉から出る。  これだけ夢中にさせておいて、卒業と共に消し去るだなんて自分勝手すぎる。  あの日々を失いたくない。  ルシアの傍にいない現実など、欲しくない。  幸せを願えれば良かった。でもそれはできない。したくない。  終わりなど、認めない。  だから、別れは許されないものだ。  そんな意味を込めレオンが言うと、ルシアはしばらく空色の瞳を見開いて固まっていたが、次第に長い睫がそれを覆った。  交わらぬ視線のまま、次には「そうか」と小さく呟かれる。  ──そうか。  僅かな違和感が走る。レオンが眉を寄せ近付こうとすると、ルシアが顔を上げてぱっと花が咲いたように笑った。 「わかった。それだけだ」  そう言って、彼は後ろ手に扉を開けると背筋を伸ばしさっさと部屋を出て行った。  予想していた反応とは違い、風のように去っていったルシアにレオンは戸惑う。  これで、いいはずだ。別れ話など聞きたくないとちゃんと伝えたはずだ。  ノック音がする。今し方出て行ったルシアではない。  案の定扉を開けたのは見慣れた使用人で、彼女は薄い箱と小さな箱を抱えていた。 「ルシア様からです。お帰りになったら、レオン様にお渡しするように、と申しつけられました」 「ルシアから?」  レオンは驚き、手渡された箱を茫然と見下ろした。  ルシアからのプレゼントなど、初めてだ。  忘れていた。今日は自分の誕生日だった。二十歳の、誕生日。  完全に失念していた自分とは違い、ルシアは覚えていてくれたのだ。  こみ上げていた怒りが消え去るのが分かり、我ながら現金だと複雑な思いで箱を開ける。 「奥様と旦那様も本日は早くに帰宅なさるそうです。それから……」  背後で使用人が何かを続けていたが、レオンの耳には既に届いていない。  薄い箱を開けると中には「卒業おめでとう」とのメッセージカードが添えられていた。ソアンの名前が綴られている。薄紙に包まれた夜空の色をしたスーツは、彼が仕立てたものだろう。  レオンは力が抜けたように椅子に座り、もう一つの小さな箱を開ける。  金色の、円形型のカフスボタンだった。こんな派手な色、と考えてレオンは気付いた。  このカフスボタンは、自分の髪の色だ。  ふと、記憶が蘇る。中学部生だった頃、仲良く一般学の追試を受けた。  すっかり日が暮れた時間に校舎を出て、二人で帰路についた。  空には金色に輝く満月が浮かんでいて、ルシアが見上げながら「今日の月はお前の髪と同じ色だ」と言っていた。何気ない会話だったがなんだか褒められた気がしたレオンは、そのことをずっと覚えていた。  ──ルシアも、忘れていなかったのか。  誕生日、おめでとう。メッセージカードにはルシアの手書きの文字で一言そう書かれていた。  お前の髪と同じで、よく似合う。  そんな声が聞こえてきそうだ。  レオンは胸がいっぱいになり、先ほどまでの怒りと焦燥が霧散していくのを感じた。  今すぐに、ルシアを抱きしめたい。触れたい。  顔を上げると、使用人は既に退室していた。レオンは迷わず、ベッド前の床に描いてある魔方陣の上に立つ。  そうだ。  自分が作ったあれも持って行こう。急いで魔方陣の一部分を書き加え、渡したかった小箱を抱える。 「……?」  だが、呪文は発動しない。  訳が分からず、レオンは何度も呪文を唱える。発音をはっきり、心の中で、小箱を手放してまで。  しかしどうやってもルシアの部屋に転移はできず、そこでようやく真実に気付いた。  発動しない理由は一つだけ。  ルシアの部屋の魔方陣を、消されたのだ。 「どうして、ルシア」  先ほど、わかった、と確かに言っていた。  別れたくないと暗に示した自分の言葉に、あっさり納得して去ったのはルシアだったのに。  レオンは青ざめた。  もしかして、こちらが別れたくないと縋るのは想定の範囲内だったのか。端から穏便に別れられないと思っていたから、あんなにあっさりと頷いて、さっさと退散したのか。  言葉で伝わらないから、強硬手段をとった……。  レオンは魔方陣の上でしばらく佇んで、そうして踵を返した。  上着も着ず、小箱を抱え数軒先のルシアの屋敷へ走る。  今ここで渡さなければ、すべてが終わる気がした。  息を切らせているレオンを凍えるような冷たい目で迎えたのは、ジュリエットだ。 「……貴様、一体どういうつもりだ」  レオンは言葉を詰まらせた。  実はルシアの発情期相手になった時も彼女は今のように冷たい眼差しでレオンを迎え、言ったのだ。 『どんな形であれ、今は私の息子でもある。無責任な事をしたら殺しに行く』  ジュリエットがルシアをそのように思っているとは知らず、大層驚いた記憶がある。  だが、ルシアは彼女を苦手としていたし、言われた言葉も理不尽に思えたのでそれをルシアに伝えることはせずにいた。  それからルシアの発情期の度に無言で迎え入れられ、そのうち転移魔方陣で入るようになるとそういった視線も受けることがなくなったが、今日のレオンは玄関先に来ている。  転移魔法を使えぬ理由を察してもおかしくはない。 「ルシアはいますか」  ジュリエットがゆっくりと瞳を上に向ける。二階のルシアの部屋を確認するような仕草だ。 「来客中のようだ。もっとも、玄関(ここ)から入った様子はなかったが」  レオンはその意味を時間をかけて咀嚼し、持っていた小箱を取り落としかけた。  つまり、転移魔法を使える人間が、ルシアの部屋にいる。  やはりルシアは、自分を閉め出したのだ。魔方陣を消して、関係を抹消した。  その上今は、他の人間を部屋に入れている。  転移魔法を使える人間など、思い当たるのは一人しかいない。  ……終わった。 「それは何だ」  涙が溢れ、ろくな返答もできずその場を去ろうとしたレオンに、ジュリエットが声をかける。  レオンは立ち止まり、彼女の視線の先にあるものを見下ろす。  小さな、長方形の小箱。  数年かけて、これを作った。口下手な自分の想いを伝えるのに、最適だと思ったからだ。これを渡せない状況など考えたこともなかった。  迷ったが、これ以上打ちのめされることなどないと思い、レオンは小箱をジュリエットに差し出した。 「……卒業祝いです。ルシアに」 「渡しておこう」 「ソアンさんにも、お礼を」 「伝えておく」  呟くように言って、レオンは頭を下げ来た道を引き返した。  ルシアは自分を選ばなかった。ただ、それだけのこと。  分かっているのはその事と、それでも、ルシアを愛しているということだった。  何かの間違いかもしれない。  そんな思いを抱え卒業の日まで過ごしたが、魔方陣は二度と発動しなかった。  更にルシアはその後学校に来た形跡もなく、卒業式も欠席した。あれからルシアがどうしているのか、分からぬままだ。  束の間の休暇中も、レオンの頭は結局ルシアのことばかりだった。  そろそろ発情期が来るはずだ。既に来ているのかもしれない。だがそうであれば、発情期の相手は自分ではない。  あの男だ。  想像すると胸が引き裂かれるように痛んだが、彼が出した答えなら受け入れるべきだと頭では分かっている。  正直、すぐにでも会いに行って縋り付きたい思いだった。  しかし魔方陣だけでなく姿を消してまでの明確な拒絶を前にすると恐ろしく、彼の屋敷に向かう事もできずにいた。  裏切られた思いと愛する感情を制御する自信もなかったし、相手はお前ではないとはっきり言われ、傷つけられるのも怖かった。  それに、万が一あの男を見かけたら、問答無用で攻撃呪文を放つ自信もある。  返り討ちにされるのが目に見えているだけに、近寄るのは避けていた。  毎日泣いて、毎日ルシアを想った。  楽しかった日々を、手を繋ぎ合ったあの夜を、綺麗で可愛くてレオンのすべてだった彼を。  忘れる日などなかった。  ひどい喪失感に苛まれ、ルシアを憎く思う時もあったが、それでも彼がすべてだという現実は変わらなかった。  就職を機に、家を出て一人暮らしを始めた。  慣れぬ環境に覚えねばならぬ仕事。  苦手な人間関係と、初めての一人暮らし。山積みの魔術書と書類、設計図、企画書。  めまぐるしく時間が過ぎ、休む間もなく転移魔法の鍛錬をしている今、ようやく、ルシアのいない現実を受け入れ始めている。  それでも眠る前、朝に目覚めたとき。  彼を想わずにいられなかった。  毎日繋道石(けいどうせき)を握りしめながら、あの美しい幼馴染みと過ごした日々を思い出す。  レオンは疲れ切った身体をベッドに沈めながら、習慣になった呪文を唱えた。  いつか、あの日々が素晴らしいものだったと、言える日が来るのだろうか。  涙がこみ上げる。  考えたくない。

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