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第1話

僕は深淵(しんえん)(のぞ)き込んでいる。 そこには濃密な闇しかなく、静寂で、何かがうごめく気配や苦痛にうめく声など一切ない。 生温かく仄かに血の匂いがする空気の中で、僕は君を想いながら深淵の闇を見つめ続けている。 いつか深淵に()ちることができたら。 その底にあるものは、僕を楽にしてくれるだろうか。 1、  いつものように、何食わぬ顔をして表通りに出る。駅から吐き出された人々の群れがすみやかに僕を隠してくれる。  気配を消して歩きながら、フレームの細い黒縁眼鏡をかける。誰一人として僕に注意を払いはしない。  反対方向から来た黒い影が、すれ違いざまに僕から袋を受け取って消える。  任務完了。  最初の頃と違って、もうドキドキすることもない。  すべて仕事として割り切る。僕はそのために育てられたのだから。 「おはよう」  昇降口で靴を履き替えていると、同じクラスの女子に声をかけられた。 「おはよう」  僕は小さく挨拶を返して背を向ける。 「三島くんってコミュ障?」  僕は無遠慮な質問を無視して足を速める。 「逃げなくたっていいじゃん」  しつこい。 「あたし、友達になってあげるよ」  こいつは何を言っている?  僕は立ち止まった。自分の申し出を親切と信じて疑わない傲慢さの裏に、邪まな下心が見え隠れしている。だらしなくゆるんだ唇が不潔そうで、思わず眉をひそめた。 「いらない」 「え?」 「必要ないから」  女子の顔色が変わり、醜く歪む。  僕は目を背けた。 「はいはい、そこまで」  後頭部を叩かれたのと同時に、聞き慣れた矢野大地(だいち)の声が降ってきた。 「女の子にそんな言い方しちゃだめだろーが」  大地は僕の髪の毛をもみくちゃにした。この男とは幼馴染の腐れ縁、ということになっている。 「こいつ人嫌いなんだ」  女子は大地に声をかけられると目の色を変えた。  ほら、やっぱりそういう魂胆。  大地は何でもそつなくこなせてしまう優等生で、生徒会役員を務めながらテニス部でも活躍している。整った顔立ちと高い身長だけでも十分に目立つ存在だ。当然よくモテる。こんな風に、僕を大地への足掛かりに利用しようと近寄ってくる女子は、今まで何人もいた。 「あたしこそ……ごめんね」  女子は媚びを含んだ目で僕を見たが、返事をするつもりはない。  大地に乱された髪を手ぐしで直しながら、僕は教室に向かった。 「おまえ、高校も三年間それで通すわけ?」  すぐに追いついた大地が呆れ声で言う。 「別にいいだろ。誰に迷惑かけるでもなし」 「迷惑とかそういう問題かよ。彼女とか欲しくね?」 「いらない」  大地はフーンと鼻を鳴らし、僕の耳に口を近付けた。 「まさかゲイで、 蒼空(そら)が好きとか?」  温かい吐息が耳にかかり、僕はぞくっとして身を震わせた。 「感じてんじゃねーよ」  大地は可笑しそうに笑って僕の肩を叩いた。 「違うよ、ばーか」  僕も笑って誤魔化し、大地の脇腹を小突く。 「蒼空(そら)に惚れてんのはおまえの方だろ」 「まあな」  しれっと言ってのける大地が眩しかった。  原田蒼空はもう一人の幼馴染で、僕の隣の家に住んでいる。小さい頃から大地と三人でいることが多かったが、最近この二人が密かに付きあい始めたため、僕はあまり近寄らないようにしている。 「蒼空は命の恩人だしな」  僕の胸の奥深いところで、ピリッとかさぶたが剥がれる音がした。 「俺、よく憶えてんだ」  大地は僕の変化には全く気付かず、耳元で囁き続ける。 「人工呼吸とは別に、やたら濃厚なキスされたの」  かさぶたが剥がれた傷口から、どす黒くねばつく熱い血が流れ出す。 「蒼空が俺にとって特別になったのって、あのキスのせいかも」  耐えがたい痛みに襲われ、僕は歩くのを止めた。 「どうした?」 「トイレ」  後ろで大地が何か言っていたが、僕の耳はもう限界を超えてシャットダウンしている。  急いで個室に駆け込み、洋式の蓋の上に突っ伏した。涙腺が決壊する。嗚咽を漏らすまいと拳を噛んで耐えた。  胸の奥から噴き出す熱い血が、僕を内側から焼いている。  どうして?  どうして?  どうして?  外側に向かって吐き出すことの出来ない感情が下腹部へと集中していき、僕の充血したそれは痛いほどに熱く脈打っている。  ホームルームの始まりを告げるチャイムを聞きながら、僕は泣きながらベルトに手をかけた。 

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