愛しい大地。 　僕は君を元に戻す努力をしよう。 　夜が更けるのを待ち、大地の家に行った。 　真眼で見てみると、家族全員もう寝静まっているようだ。 　黒い霧と化して大地の部屋に入り込む。 　堕ちた神そのものになりつつある僕は、容易(たやす)くその力を行使できた。 　いずれ僕の意識は失われてしまうだろう。内側を侵食し続けるものの記憶や知識が、そう教えてくれる。 　この禍々しいものの種を大地に植え付けた責任は重い。僕の意思で動けるうちに、それを引き抜いてしまわねばならない。 　眠っている大地の顔は穏やかで、邪(よこしま)な気配を感じさせなかった。 　だが、その体内で脈打つ種は一時も休むことなく暗黒を生み出している。僕が吹き込んだ黒い精気から生まれた種だ。 「大好きだよ」 　僕は声にならないほど小さく小さく囁(ささや)き、大地と唇を重ねた。 　温かく湿った息が漏れる。 　愛しい匂いがした。 　口から吸い出すのは容易ではない。種は今や、しっかりと根を張っているのだ。 　引き抜く時の苦痛を出来るだけ感じさせないように、僕は意識を集中させて一本ずつ根をころしていった。 　大地の口の端から唾液が流れ、苦しげなうめきが漏れる。 ――我慢して。もう少しだから。 　僕は大地の顔を両手でしっかり固定して吸う力を強めた。 　張り巡らされていた根の最後の一本が抜けた瞬間、それは軽々と喉元を上がって来て僕の口中に収まった。 ――これでいい。 　種を呑み込んで唇を離すと、大地はうっすら目を開けていた。 「そっか、海斗だったんだ」 　朦朧(もうろう)としているようだが、僕は大地が何を言っているかすぐわかった。 「蒼空とキスしても、なんか違うと思ってた」 　目から熱いものがこみ上げてきて、視界がぼやけた。 「ありがとな」 　大地はとても優しい声でそう言った。 　僕は涙をぬぐい、手をかざして大地のまぶたを閉じさせる。 　次に目覚めた時、大地の中から僕は消え失せていることだろう。 　大地は幸福そうな顔で眠りに落ちていった。 　 　深淵に堕ちるのは僕だけでいい。 　大地はヒトとして生まれたのだから、ヒトとして幸福になるべきなのだ。 　黒い種に染められていた時の記憶は、大地を苦しめるかもしれない。 　突然の変化に、黒い王を仰いでいた者たちは戸惑うことだろう。 　それでも大地の傍には蒼空がいる。 　無邪気な少年の姿をした癒しの神は、奇跡のように大地を護り、救ってくれることだろう。 　穢れた堕神が棲みついた今の僕には、以前とはくらべものにならないほどの知識と力がある。 　これから自分がどうなるかも、よくわかっている。 蒼空の中の記憶も消そうと思ったが、僕にはそれが出来なかった。 三島海斗という幼馴染が存在しない世界に、蒼空は戸惑うだろう。 だが、きっと受け入れて理解してくれるはずだ。 蒼空だけは僕を憶えていてくれると思うと、少し安らぎを感じる。 　僕は住み慣れた街から遠ざかろうと、夜空に飛び立った。 　翼がぼろぼろになるまで飛び続け、やがて力尽きて海に落ちた。 　沈みながら死を期待したのに、何の苦痛も感じる事なく再び浮き上がった。 　僕の意志に反して勝手に動く体は陸に上がり、おぞましい食物を得て、口に運んだ。 　咀嚼された生臭いものが喉を下りていく。 　吐き出したかったが、僕の顔は満足そうに笑みを浮かべているばかりだった。 　もう意識もだいぶ薄れてきた。 　これが僕の運命だったのだ。 　堕ちた神の成れの果てが天上に穿った穴から手を伸ばし、うまれたての僕がたまたまそこにいた。 　捕まって引き摺り下ろされた時から、こうなることは決まっていたのだろう。 「さよなら」 　深淵の底の安らかな静寂が僕を待っている。 ～FIN