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第27話 雨が呼ぶ

 ちょっと……。 「おはよう」 「お、おはようございます」 「?」 「あ、あのっ、カーディガンは今、クリーニングに出してるのでっ」  昨日、その、義信さんのカーディガン羽織ったまま、一人でしちゃった。とか、かなり、すごく気まずい。  何にも知らない義信さんに微笑まれると、良心が痛むよ。  目、合わせにくい。  罪悪感っていうか、気恥ずかしさっていうか、気まずさっていうか。  だって、義信さんは自分が貸してあげたカーディガンで何をされたかなんて思いつきもしないだろうから。 「いいのに、そんなに気使わなくて」 「い、いえっ」  違うし、って頭の中で苦笑いしてる。気、使ったんじゃなくて、気、まずいだけだしって。  汚しちゃったわけじゃない、けど。  その、あれが、付いちゃったわけじゃない、けど。  でも、ちょっとそのままお返しするのは気が引けたから、今朝、一番にクリーニングに出してきた。そしたら、明日の朝には受け取れる。 「ただのカーディガンだし」 「いえっ」  そんなただのカーディガンにだって、ドキドキしちゃうんだもんって、また苦笑い。 「? 汰由」  でも。  だって。  香水とか、ずるい。  そこに義信さんがいたって感じがすごくしちゃうじゃん。  俺が着ちゃうと余る袖にも、全体的にサイズが余るのも、もちろん、貴方の残り香にも、すごく、なんか、ドキドキして。 「今日はあんまり混まないだろうね」 「……ぁ、雨」 「そう。しかも平日だ。だから今日はのんびりしたもので終わると思うよ。季節的にも閑散期だから。もし学校の勉強があるなら休憩多めにとってもいいし、少し早めに上がってもいいよ」 「だ、大丈夫ですっ」  ヤダヤダって思わず首を横に振った。 「そう? 試験とか、点数下がったりしてない?」  そこは、まぁ。 「あ、下がった?」 「だ、大丈夫です!」  慌てて答えると、くすくすと小さく笑ってくれる。昨日、俺の頭の中でどんなことをされちゃったのか、これっぽっちも知らない優しい人が、大丈夫? って優しく問いかけてくれる。  混まない日は、好き。  義信さんがおしゃべりしてくれるから。 「本当に?」 「本当です!」  お客さんがいたらおしゃべりできないし。商品だって整理しなくちゃいけない。お店的には混んで欲しいだろうけれど。 「そうだ。あの紳士服の本、今も読んでる?」 「はい。大学とか、あと休憩室でも」 「じゃあ、今日は実践ってことで。お客さん来ないだろうから、ネクタイの仕方、やってみようか」 「え? いいんですか?」  外は雨。 「はいっ、是非」  でも今の言葉に気持ちが晴れどころか青空に虹くらいかかりそうなほど、大きくはしゃいだ。  だって、こんな機会、ないでしょ?  こんな。 「まずは、一番オーソドックスなやり方、できる?」 「はい」  義信さんはマネキンの首元からネクタイを外すと、それを手渡してくれた。  店内にある鏡に向かって、背筋をピッと伸ばし、一番オーソドックスな、そして俺が唯一知っている結び方をやってみる。 「うん。上手」 「わ、ありがとうございます。あの、あれ、知りたいです」 「?」 「ウインザーノット」 「あぁ」  貴方が結んでくれたネクタイ。あの時、義信さんの長い指ガ魔法みたいに首元で踊っていて、すごく素敵だった。早くて、あっという間に結んじゃうから、すごく見惚れてたんだ。 「じゃあ、こうすると見えるかな」  わ、ぁ。 「この結び方だととても固くできるから崩れにくいんだよ」  わ。 「まず、幅の狭い方を短めに取る」  ど、しよ。 「それから、ここを持ちながら、後ろから前へネクタイを回して」  抱きしめられてる、みたい。 「こっち。この反対側を……」  声が近い。 「後ろから前へ」  背中、熱い。 「通した反対側から、今度は外側を覆うように回して」  心臓の音、聞かれちゃいそう。 「今度は内側から外に通して」  雨で、お客さんが来なそうな平日だったから、教えてもらえる。  雨が降っていなかったら、ダメだった。  雨のおかげだ。 「回してできた輪の中に幅の太い方を差し込んで、出来上がり」  雨じゃなかったら。 「あとは形を整えて……」  こんなふうには。 「ありがとうございます……」 「どういたしまして」  こんなに近くには。 「汰由は覚えがいいから、案外簡単……に……」  来られなかった。 「……できる、と思うよ」 「……」  抱きしめる距離、になんて。 「……」  雨だったから。  義信さんと、あのホテルで過ごした夜も雨で、あの夜もこのくらい近くにいられた。この距離感に心臓が止まっちゃいそうなくらいにドキドキしたのを覚えてる。 「義信さん……」  貴方と。  ――カランコロン。  今、息がきゅっと喉元で止まってしまったのさえ知られてしまいそうな、この距離で見つめあっているのを、まるで遮るように乾いた鈴の音がして。 「こんにちは」  もっと、弾む、とても澄んだ鈴の音色のように軽やかな声がした。 「雨がすごくて……」  一目見てわかった。 「はぁ、もうびしょ濡れになっちゃった」  その人が、あの人って。 「……? あ、新しい……人? です?」  首を傾げたその人はスーツを着ている。 「初めまして」  けれど、とても愛らしくて、可愛いかったから。  この人だって、すぐにわかった。

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