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クスノキの下で君を想う

 一周5キロ、道幅の広いランニングコースがある都立公園。  休みの日にここを走るのが、この街に引っ越してきてからの日課になっている。  5月になったばかりだというのに、最高気温は夏日の基準を超え、頭上には雲ひとつない青空が広がっている。  自販機でスポーツドリンクを買い、息を整えた後、俺はクスノキの下にあるベンチに座った。  そのクスノキはとても大きく、なぜかはわからないが、近くにいると気持ちが落ち着く。  幹に括り付けられた板には、園内最長寿の樹木で高さは25メートル、幹回りは8メートルある、と書いてあった。樹齢は書いてないのでわからないが、きっと何百年も経っているのだろう。  大きく張り出した枝には青々とした葉が生い茂り、風が吹き抜けるたびにサワサワと擦れ合う。草や土の香りをのせた風が、汗で濡れた俺の髪を乾かしていく。  ベンチの背もたれに体を預け、揺れる枝葉を見上げていると、不意に聞き覚えのある声が俺を呼んだ。声がした方を見ると、そこには、細身で背の高い男が立っていた。 「あの……、お久しぶりです」  その声を聞いたのは2ヶ月ぶりだった。  この男と知り合ったのは1年ほど前、まだ俺が引っ越してきたばかりの頃だ。たまたま立ち寄った公園内の、たまたま立ち寄った売店で男は働いていた。  その売店は、蕎麦と和スイーツが名物のいわゆる蕎麦茶屋を併設していて、走って腹が減った時はいつもそこで食事をしていた。  パートのおばちゃん達とはすぐに仲良くなり、おばちゃん達が男のことを「コウくん」と呼んでいたので、俺も自然とそう呼ぶようになった。  初めのうちは「コウくん」と呼んでいたが、本人に呼び捨てがいいと言われ、「コウ」と呼ぶようになった。  俺が「コウ」と呼ぶと、嬉しそうに微笑みながら、透明感のある声で返事をする。その顔が見たくて、声が聞きたくて、俺は毎週休みの日が来るのを待ち遠しいと思うようになった。  その感覚は日毎に強くなり、やがて、自分の心と体がそれは恋愛感情なのだと教えてくれた。自分の気持ちの変化に戸惑いはしたものの、後ろめたさは感じなかった。  だが、今年の春——二ヶ月ほど前——から、彼の姿を見かけなくなった。  最初はたまたまいないだけかと思ったが、パートのおばちゃんに聞くと「辞めちゃったのよ」と教えてくれた。大学を卒業し、飲食関係の企業に就職したのだと。  何も聞かされていなかった。  俺が勝手に一人で盛り上がっていただけで、俺の存在なんて、彼にとっては大勢いる客のうちの一人に過ぎなかったのだ。  冷静に考えれば、当然のことだとわかる。ただ、彼から直接言ってもらえなかったことがショックで、その日以来、全てのものから色が失われたように見えた。  俺をそんな状態にした彼が、今、目の前に立っている。  それだけで、俺の目に映る景色は、みるみるうちに色を取り戻していった。  長かった髪は短くなり、少し痩せたように見える。ざっくりとしたパステルカラーのサマーニットが、色素の薄い肌によく合っていた。 「僕のこと、覚えてますか?」  不安そうな顔で尋ねる彼に、俺は頷きながら言葉を返した。 「ああ……、会いたかったよ、コウ」  俺がそう言うと、コウは柔らかく微笑んだ。  また会えた。またコウに会うことができた。その事実だけで、今の俺には十分だった。

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