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プロローグ

「ダメですっ!絶対に許しません!」  知的で紳士的な、上海で一番予約が取れない精神科医であり、カウンセラーとしての顔を持つ包文維(ほう・ぶんい)だったが、今この時ばかりは、恋人である唐煜瑾(とう・いくきん)でさえ知らないような厳しい顔つきで、声を荒らげていた。 「でも…文維…」  困った様子で口を開いた煜瑾だったが、文維の怒りとも悲しみとも取れる深刻な眼差しに、そのまま言葉を失ってしまう。 「煜瑾は、本当にそれでよいのですか?もう、私のことは必要ないと?」 「違います!わ、私は…文維と離れたくはありません」 「それなのに、私の元から去るというのですか?」 「そんな…文維…私は…」  泣きそうな煜瑾に、さすがに文維の従弟で、煜瑾の親友である羽小敏(う・しょうびん)も黙っていられなくなった。 「あのねえ、君たち。毎回、そういう無意味な愁嘆場はやめてくれない?ボクもいい加減に飽きてきたよ」 「そう?私は面白いけど」  ここは、文維と煜瑾が暮らす、南京西路(ナンヂンせいろ)にある嘉里公寓(ケリー・マンション)の一室だ。  今日は小敏の友人であり、煜瑾の仕事仲間でもある、日本人の百瀬茉莎実(ももせ・まさみ)が遊びに来ていた。  事の発端は、この百瀬が発した一言だった。 「今年は、どうしても実家に帰らなくちゃならなくて…。連休は京都にいるの」 「この前、京都に行った時は、茉莎実さんのご実家にもお世話になりました」  秋に行った初めての観光旅行を思い出し、煜瑾は懐かしそうに微笑んだ。 「うちのお祖母(ばあ)ちゃんも喜んでたよ。とってもお行儀のいいイケメンたちだったって」  そう言って百瀬は、ニッと笑った。 「また来てね、って言ってた」  サラリと言った百瀬に、煜瑾の美しい黒い瞳がキラキラと輝いた。 「本当ですか!」 「もちろん。何だったら、今回、私と一緒に京都に来る?」 「!」  ここで話は冒頭に戻る。 「文維、私、また京都に行ってみたいです」 無邪気な煜瑾のお願いに、いつもクールな文維が、グッと苦い表情になった。

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