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第1話

【不安障害】 ・強い不安感、緊張 ・動機、心拍数が上がる ・発汗、身体の震え ・眩暈、吐き気 【睡眠障害】 ・寝つきが悪く眠りを維持できない ・朝早く目が覚める ・日中の眠気、注意力の散漫や疲れ 僕にこの二つの病名が付いたのは25歳の夏だった。 新卒で入社した会社にも慣れ、中堅というには早いが後輩もでき始めた頃、春の人事異動でとある部署に配属された。そこは係長と事務員と僕というとても小さなチームだったが、「前任の子が産休に入っちゃってね、来てくれて助かったよ」と笑顔で迎えてくれた係長に、人が良さそうだなと安堵したものだった。 しかしそれが崩れるのに3ヶ月も必要なかっただろう。「覚えるのが早いね、流石だね」「あれもやっておいてくれたの?ありがとう」なんて言葉があったのは最初の1ヶ月だけで、2、3ヶ月も経てば笑顔すら見せることは無くなった。 仕事なんてやって当たり前だしいつまでも新人気分で褒められたいなんて思っているわけでは無い。しかし、ただ日々の仕事をこなすだけならそれで良かった。 「A社の件まだ終わってないの?」 「あの、納期は2週間後だと聞いていたんで先に別のことを終わらせて来週しようかと思ってたんですが」 「はぁ…そんなこと言ってないよね?あそこは先方が厳しいんだから急ぎでやらないと」 「…すみません、すぐやります」 明細が届いたら2週間以内に処理するように、そう言ったじゃないか。でなければ僕の記憶にある「2週間」という具体的な期間はどこから来たと言うのだ。だが実際そんなマニュアルやメモが残っているでもなく口頭で言われただけだ。言った言わないの生産性の無い会話を続けるくらいなら僕が折れてすぐに処理に取り掛かるのが賢明だろう。 しかし、これは序章に過ぎなかった。不満、というには小さく満足には程遠い。認識の祖語、というのが一番近かったのかもしれない。小さな歪みでも積み重ねればいつかは崩壊する。僕は自分でも気付かない間に大きく歪んでしまっていたのだろう。 ある日、取引先と電話でやり取りをしている際に「では明日の10時に」と会議の日程を決め、手元のメモにも「10時」と書き留めた。しかし電話を切った直後から「もしかしたら11時と伝えたかもしれない」「メモを控え間違えたかもしれない」という不安に襲われた。メモも取っていたのだし10時と伝えた記憶もある。だがしかしそれが間違いだったら?と思うと急に心拍数が上がり指先が震えた。そんなに心配なのなら再度電話をして確認したら良かったのだが、 「会議の日程も覚えていられないのか」と不満を抱かれるのではないかと、不安が不安を大きく煽った。 その日から僕は眠れなくなった。 結局翌日の会議は10時からで間違いは無かったし問題も無かったのだが、何か一つ約束をする度、何かを伝言する度自分の記憶や行動は正しいのだろうかと思うとそのことで頭がいっぱいになって、夜も眠れずただただ叫び出したい衝動を堪えるしかなかった。 その状況が正常だと思って居たわけではないが、恫喝されたわけでもあからさまな無視などのイジメを受けているわけでもない。それなのにただ職場で円滑に仕事をする、という大抵の社会人なら日々こなしているであろう行動をできない自分が悪いのだと思って居た。 相談できない友人や家族が居なかったわけではない。だが、こんな相談をするには僕は普段から周りに明るく振舞いすぎていた。 いつも明るく、お喋りが好きで、人付き合いが得意。そんな僕が「上司と上手くいかず毎日震える手で仕事をし、眠れずいっそ消えてしまいたい」なんてとても言えやしない。 しかし表面張力ぎりぎりまで水を溜めたコップが溢れたのはとても小さな出来事だった。 「吉村さん、原くん。この書類チェックしたのどっち?」 そう言って係長が僕と事務員の吉村さんの間にぺらりと置いた一枚の書類。僕にはその書類に見覚えが無かった。チェックをした赤ペンの筆跡も僕のものではない。 「あ、それは私がチェックしました」 「そうなの?あー、じゃあいいや」 「どうかしましたか?」 「いや、ここの案件は納品先だけじゃなくて発送元もチェックして置いて欲しかったんだけど、チェックされてなかったみたいだから」 「そうなんですね、すみません。次からはチェックします」 この会話に僕は参加していない。だけれど僕の心のコップを溢れさせるのには十分な出来事だった。 吉村さんが「どうかしましたか?」と聞かなければ係長は吉村さんのチェックが足りていなかったことを注意しなかっただろう。先の「じゃあいいや」という言葉にはつまりチェックをしたのが僕だったら責めるつもりがあったという現れだろう。 そうか、やっぱり。小さな小さな齟齬は意図的に係長の手によって引き起こされていたもので、彼の些細なストレスの捌け口にされていたのだ。 僕はその晩、普段は行かない飲み屋街を適当に歩き、適当に目についたバーに入った。寂れたビルの2階という繁盛させる気も無さそうな立地にあるその店は、平日とは言え想像通りガラリとした客入りで、カウンターに一人の男性が座っているだけだった。 6席ほどのカウンターと2人掛けのテーブルは2組という小さなバー。初めての店に入る緊張やワクワクする気持ちなど最早無かった。だが、ここに僕の人生の選択肢があるのだ。 先客から2席空けたカウンター席に座る。 「いらっしゃいませ。初めまして…ですよね?」 「はい。もしかして一見ダメですか?」 「いえ、そんなことないですよ。ただ珍しかったので」 そう穏やかなトーンで話すマスターからおしぼりを受け取る。 「ここは分かりにくい場所にありますからね、常連さんばかりで。どなたかのご紹介ですか?」 「あ、いえ。そうじゃないんですが。…ちょっと飲みたくなってふらっとしててたまたま」 「そうでしたか。うちは特にメニューを置いてなくて。何を飲まれますか?」 「カクテルはあまり詳しくないんですが…さっぱりした炭酸で何かおすすめあります?」 「そうですね…ジンバックとかどうでしょう」 「じゃあそれで」 正直なんでも良かった。お酒は弱い方では無いし、何を出されても文句を言うつもりはない。ただ、僕は適当に入った店で、初めて会った人間と会話して、その人に僕の人生を決めて貰いたいだけなのだ。 僕は、今日消えようと思う。 会社から、もしくはこの世から。 上司とのいざこざを話して「それは上司が悪い。パワハラじゃないか」という意見なら前者を。「社会なんてそんなものだ。もう少し頑張ってみては」という意見ならば後者を。 勿論そんなことマスターに伝える気は無かったし、どんな選択をしようともそれは最終的に僕が決めたことで、結末をマスターが知ることも無い。 正直、そんな大きな選択を迫られるほどの出来事は一つも起こっていないことは自覚している。だからこそ、「頑張れ」という無責任なプレッシャーを与えられるのは目に見えているし、「そんなことで」と言われるのではという不安が積もり積もって何が正常かなんて判断しようがなく、ただ「楽になりたい」それだけだった。 「いやぁ、本当腹立つんですよね。僕の上司。ねちねちしてるっていうか」 「そういう人と一日中一緒に居るもの大変ですね」 大きな選択を任せる、なんて覚悟で来ておきながら僕の口調はとても軽いものだった。見ず知らずの人間相手にも結局僕は本当の自分を出せず、「仕事で嫌なことがあったからお酒で発散させる客」を演じてしまっているのだ。 ただ愚痴を言いたいだけの客。マスターからしたらそんな客は慣れたものだろう。ただ同調して発散してすっきりして帰っていくのを待つだけ。 僕はもういっそ「明日も頑張って下さいね」と言って欲しいのかもしれない。自分で背中を押してくれる引き金になる言葉を引き出そうとしているような気もしてくる。 「なんだそのクソ野郎。辞めちまえよ、そんな会社」 そう乱暴な言葉遣いの割に少し笑いを含んだ声は意外なところから聞こえた。 「えっ」 「そんな奴の下で働いてて楽しいか?俺だったらもうとっくに殴ってんな」 「磯部さん」 マスターに窘められた男性は、2席空けて座っていた先客の男性だった。狭い店なので僕とマスターの話が聞こえていたのは分かっていたが、ずっと静かに飲んで居たのでまさか話に加わってくるとは思わなかった。 20代後半くらいに見える彼は座っていても高い身長と長い手足の持ち主だとよく分かる。形の良い眉と切れ長な目は意思が強そうだが、先ほど聞いた汚い言葉は本当に彼から出たのかと思うほど整った貌をしていた。 「お前もそのジジイ殴りてぇなとか思ったことあるだろ?」 「まぁ、そりゃ…でも僕も悪いところありますし」 「どこにだよ。そのオッサンの性格が悪いだけだろ。辞めろ辞めろ。働いてやる価値ねぇよ」 たった一人の上司と上手く打ち解けられない自分が悪い、もっと僕が頑張れば、もっと僕が我慢すれば…と思って居た思考を一瞬で彼は否定した。 「…でも、辞めても次の職場で上手くいくか分からないじゃないですか」 「じゃあそこも辞めろ」 そうなんでも無いことのように言って彼はウイスキーを飲み干す。 「あ、さっき俺だったら殴ってたって言ったけど、本当に殴るなよ。そんなクソジジイ一人の為に前科付くのもばかばかしいだろ。そんな奴にお前の人生を汚す価値なんてねぇ」 そうだろうか。僕の人生はまだ価値があるんだろうか。 「俺が一杯奢ってやるよ。マスター、こいつにカミカゼ」 「…へぇ。珍しい。わかりましたよ」 「そんな、悪いですよ!あ、じゃあ僕も一杯貴方にご馳走します。何がいいですか?」 「はは、なんだそりゃ。…そうだな、じゃあスクリュードライバー」 「承知しました」 初めて飲んだカクテルはパンチの効いた飲み口だったが、係長を一発殴ってやったような気分になれた。 これが不安障害の僕と、無神経な彼との出会いだった。 ジンバック:正しき心 カミカゼ:あなたを救う スクリュードライバー:あなたに心を奪われた

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