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第2話

バーの常連らしいその男は「磯部龍平」と名乗った。 「イソベリュウヘイさん…」 「そ、リュウは難しい方の龍な」 「画数多いですね」 「ははっ!テストのとき面倒くさくてカタカナで書いてたな。で、お前は?」 「原です。原拓未。開拓の拓に未来の未」 「タクミね。画数少なくていいな」 そんな取り留めもない会話で自己紹介をした。気が付けば2席空いていたはずの間の席も詰まっていて、飲みやすくも度数の強いショートカクテルに少しずつ思考を奪われていた僕は、その謎の青年に少しずつ心境を吐露していた。 どうせもう2度と会うことなんて無いのだし、通りすがりの少々面倒な酔っ払いくらいに思われてもいいや、と開き直っていた。 「よく聞くパワハラって言われるようなことはされてないんです。怒鳴られたわけでもないし、残業を強要されてるわけでもない。でも、毎日毎日嫌味っぽいこと言われたり、僕が作った資料を係長が作ったことにされてたり」 「目に見えるように嫌がらせするのだけがパワハラじゃねぇだろ」 「あと、僕お酒好きですけど焼酎だけは体質的に飲めないんです。なのに接待のときにビール注文しようとしたら、ボトルで焼酎注文するから君も焼酎飲めって言われて。僕が飲めないことは何度も言ってたのに飲まされちゃって。案の定家に帰って吐きまくったし」 「それ立派なアルハラな」 「少しずつ疲れちゃって。最近はほとんど眠れないし、眠っても仕事の夢を見てすぐ目が覚めちゃうんです」 「隈すげぇもんな。寝てないから酒回るのも早いんだろうな」 そう言って伸びてきた長い指に目の下をなぞられる。そんなに分かり易く隈はできていただろうか。もう自分の顔なんてそういうもんだと思ってたから、疲れた顔をしているとか隈があるとかよく分からない。 説教されるわけでもなく、同情されるでもなく、でも否定もせず受け止めてくれる彼の話し方に今まで溜まっていたドロドロとした心の内が解かされる。 「僕がおかしいんじゃないですか。たった一人合わない人がいるってだけ会社から逃げたくなるなんて、弱くないですか」 「さぁな。確かにその上司に耐えられるし何とも思わない人間も居るだろうよ。でもお前が限界なら辞めちまえ。会社はそこだけじゃねぇだろ」 それなりに苦労して入ったそれなりに良い会社だったのだが、収入が下がろうがステータスが下がろうが、そんなことより逃げ出したいのが本音だった。 「でも、ちょっと…あの係長に辞めますって言うのも怖くて。何言われるんだろうって」 「ふぅん。お前のとこ人事部とかねぇの」 「ありますけど…でもやっぱり直属の上司に先に言わないと引継ぎとかもありますし」 引継ぎ。自分で言っておきながら、ずん、と心が重くなった。退職するなら少なくとも1カ月前には言っておくのが常識的だろう。僕が退職するまでの1カ月間、係長はどんな態度に出るだろう。軟化することはないだろうから…と考えるだけで動悸がしてくる。急に酔いが醒めたように真っ青になる僕に磯部さんは突拍子もない提案をしてくる。 「拓未。そのクソ上司に一発ぶちかまして辞めちまえよ」 「え、どういうことです?殴るなって言ったの磯部さんですよ」 「殴らなくていい。そんだけねちねちやってきたんだ。ちょっとした復讐でもしてやらねぇとやられっぱなしは分に合わないだろ」 「もう、磯部さん。何する気か知らないですけどあんまり危ないこと考えないで下さいよ」 そう窘めるマスターの言葉も無視して磯部さんはニヤリと笑うと「作戦立てようぜ。こいつが煩いから場所変えるぞ」とマスターを指さした磯部さんは僕の腕を掴んで立たせる。 「え、え、ちょっと待って下さい。お会計!」 「ツケ!」 そう一言マスターに言い放った磯部さんは僕を引っ張って店を出た。磯部さんは常連かも知れないが、僕は初めて入った店でツケなんてできるわけがない。こんなの食い逃げじゃないかと僕の分だけでも払いに戻らせてくれと必死に伝えてみたが、「大丈夫大丈夫」と軽く流されてしまう。 明日必ず支払いと謝罪に行こうと心に決めて、諦めて磯部さんに従うことにした。 「で、お前んちどっち?」 「え、僕の家行くんですか?」 「何だよ。遠いの?」 「いや…遠くはないですけど」 最寄りの駅を伝えると彼は「そこならタクシーでいいな」とさっと流しのタクシーを捕まえて乗ってしまった。初めて会うこの謎の人物を家に連れて帰って良いのかと乗り込むのをためらう僕だったが、 「お前が乗らないでどうすんだよ。場所わかんねぇだろ、さっさとしろ」 当たり前のようにそう言われてしまってどうでもよくなってきた。そうだ、今日僕はこの世から消えても良いとすら思って居たのだ。この知らない男がどんな人間で何を目的としていようとどうってことはない。 「…磯部さんて無神経って言われませんか」 「俺の代名詞みたいなもんだな」 「でしょうね」 僕は普段どれだけ失礼な人間に出会っても、こんなこと初対面の人に言ったりなんてしない。だけど、なんだか彼だったら良いんじゃないかと思って口にしてみたが、案の定彼は気にした素振り一つ見せない。 部屋は片付いていただろうか、そんなことが一瞬頭を過ったが、まぁそれもどうでいいだろう。どうせ彼は部屋が片付いていようが散らかっていようが気にするまい。そもそも勝手に押しかけておいて部屋に文句を言われてもどうしようもない。 自宅から最寄りのコンビニでタクシーを降りた。 「俺はまだ飲むけどお前は?」 「いや、僕はもういいです」 「適当に飲み物と食い物選ぶから欲しいもんあったらカゴ入れろ」 「じゃあ…アイス」 この口ぶりなら奢ってくれるということだろう。まぁ部屋に押し掛けてくるんだしアイスくらいはねだってもいいかと定番のバニラアイスを一つ、磯部さんが持っている籠に入れた。そんな僕を見て磯部さんはニヤリ、と笑うとくしゃりと僕の髪をかき混ぜる。 「ハーゲ○ダッツでもいいんだぞ?」 「いいです、僕それが好きなんで」 「あっそ」 彼はそれだけ返すと自分の食糧を選ぶために店内を軽くうろついて、満足したのかレジへ向かった。 「拓未、行くぞ」 向かうのは場所も知らない僕の家なのに、そんな風に声をかけられなんだか少し面白くなってきた。 コンビニから徒歩2~3分のところにあるマンションが僕の家だ。静かな住宅街だし、コンビニは近くて便利だ。駅から少し離れているのが難点だが、その分家賃は抑えられているから僕は満足している。 「部屋、2階なんですけど階段でいいですか」 「ああ」 マンションは7階建てなのでエレベーターはあるのはあるが、僕は2階の住人なので滅多に使わない。エントランスをくぐって非常階段に回って2階に上がる。このマンションは1階がエントランスと住人専用の駐車場になっているため、住人が入居しているのは2階から7階までだ。集合住宅はどうしても多少なりとも周りの生活音が気になってしまう。僕は階下に住人が居ない為、少なくとも僕の足音や掃除の音で迷惑をかける心配は無いので2階というこの部屋は僕のお気に入りだ。 「へぇ、一人暮らしの割に結構広い家だな」 「そこが気に入って借りたんで」 一部屋一部屋は小さいものの、一人暮らしで2DKなら確かに広めの部屋だろう。しかも僕はあまり多くの物を置いていないのでやたらとガラリとした空間が目立つ。何度か友人を招いたことはあるが、あまり生活感を感じさせないこの家で気軽に寛ぐのは難しそうだった。だというのに初めて出会って、初めてやって来た彼は家主である僕に確認もせずソファにどかりと座りテレビをつけた。 「アイス今食うのか?冷凍庫入れるならこのコーヒーも冷やしといて」 「今食べる」 「じゃあコーヒーだけ冷蔵庫入れて」 「結局冷蔵庫行かせる気じゃないですか」 ここまで気を遣わずに振舞えるなんていっそ尊敬に値する。会話の内容だけ聞けば同棲して3年目のカップルみたいじゃないか。冷蔵庫に向かいながらそんなことを思ってふ、と笑いが零れた。アイスを片手にリビングに戻ると、ソファの真ん中に座る磯部さんに「ちょっと詰めて」と少し端に追いやって横に座った。なんだか彼に敬語を使うのすら馬鹿馬鹿しくなってきた。磯部さんはもう缶ビールを飲みつつ、ツマミを広げていた。僕も大して面白いとも思えないバラエティー番組を見つつアイスを口に運ぶ。 「磯部さん、それで作戦って何ですか」 「龍平さん」 「は?」 「そう呼べよ」 「…りゅうへいさん?」 そう呼ぶと彼は満足げに頷いた。僕は何の確認もされずに勝手に下の名前で呼び捨てにされているから、そういう距離感の人なんだろう。 「お前はちょっと舌ったらずだからな。そっちの呼び方の方が合ってる」 「…は!?馬鹿にしてるんですか?」 「ちげぇよ。お前にそう呼ばれると俺が燃えるだけ」 「意味分かんない」 だろうな、と呟く龍平さんは楽しそうだ。ぐび、と大きく缶を煽った龍平さんはやっと本題に入った。 「で、お前今までクソ係長にされたこととかメモってたりしてないか?」 「メモですか?いや、特には…」 「じゃあできる限りでいいから思い出して書き出してみろ。日時が分かれば最高だな」 「日にちまでは…あ、接待の日程とかは会社のPCのスケジュールに入ってますけど」 「会社か…もう暫くは出社できそうか?無理ならもう明日にでも飛んじまえ」 言葉は乱暴かもしれないが、彼なりに僕を心配してくれているのだろうか。今日にでも消えたいと思って居たはずなのに、彼の言う「一発ぶちかます」為ならもう少し頑張ってみようかと思う。 「いや、大丈夫ですけど…何する気ですか?」 「いいから、ほらスマホでもPCでも良いから今までのこと書き出せ」 空になったアイスのカップを取り上げられ、そう促された僕はノートPCを起動した。メモ帳のアプリを開き、これまでの出来事を箇条書きにしていく。 僕の席の方が遠いのに、係長の真後ろにあるドアを閉めてこいと言われたこともあった。今思い出せばとても小さなことだな、と打ち込んだ文字を消していたら龍平さんにその手を止められ、「それも書いとけ」と言われる。 「でも…大したことじゃないですよ」 「お前は嫌だったんだろう?」 「…うん」 そうだ、嫌だった。確かに廊下に繋がるドアが開いていて通行人の喋り声とかが度々聞こえるのが煩かったんだろうが、気になるなら自分で閉めに行けばいいじゃないか。何せ自分の後ろにあるドアなんだから。わざわざ僕に「原君、ドア閉めて。煩い」こんな言い方しなくてもいいだろう。 僕だって人間だ。プライドもある。他にも社員が居る事務所内で犬のように命令されて傷付かなかったわけがない。メモを見ていると情けなくなって涙が出てきた。 「キツイか?やめとく?」 「…ううん。やる」 書けば書くだけあの係長は本当にただただ性格が悪いしょうもない大人なんだなと思えてきた。そもそも50代にしてたった3人しか居ないチームの係長なんて、出世コースから大分外れている時点で彼の人間性なんてお察しだ。客観的に見ることでそう感じて気が楽になる自分と、その程度の人間にストレスの捌け口にされていた惨めさを覚える自分。 涙を滲ませる度に頭を大きくて温かい手に包まれる。こうやって誰かに頭を撫でられたのなんていつ振りだろう。そもそも人前で泣いた記憶も乏しい。いつだって明るく、物分かりの良い自分を演じてきた僕は家族の前でも友人の前でも、過去の恋人の前でさえ泣いたり甘えたりすることなんてほとんどなかった。 思い出せる限りのことは書き連ねたメモを見て、ふぅと軽く息を吐く。 「終わったか?」 「…うん」 「なぁ、これだけあるのに周りの人間は何も言わなかったのか?じゃあやっぱりクソみてぇな会社だな」 僕も周りに相談したりすることも無かったが、周りの人間も見て見ぬ振りをしてきたのは事実だろう。少なくとも業務面では事務員である吉村さんは何かと気付いていたはずだ。チームは違えど同じ事務所内には30人近い人間が働いていた。その中の誰も、僕のことなんて見ていなかったってことだろう。 なあんだ。僕、あそこで働く意味なんて無いんだ。 そう思ったらなんだか急に眠たくなってきた。ずるずるとソファの背もたれに埋もれていく身体を起こす力が出ない。帰って来たままで着替えてもいないし、何より龍平さんが居るのに。ダメだ、ダメだと少しでも眠気を払おうとふるふると軽く首を振ってみるも特に意味はなかった。 「眠いか?」 「ん…ごめんなさ…」 「寝ちまえ。最近禄に寝てなかったんだろ」 背もたれに預けていた頭を掴まれ、そのまま身体を横にされる。今僕の頭の下にあるのは龍平さんの脚だろうか。もう瞼が閉じてしまっている僕には確かめようがない。 薄れていく意識の遠くで、プシュ、と缶のプルタブが開く音が聞こえた。少なくとも彼は後ビール1本分はここに居るだろう。それが何故か僕を酷く安心させた。 僕は数週間ぶりに夢を見ることも無く、朝まで眠った。

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